日常の32『どこにでもある話』

 昔から一緒に遊んでいた男を、松井沙世は兄さん、と呼んで慕っていた。

 彼が高校生。沙世が中学生の頃。


 その日も、彼女は兄さんと一緒に彼の家でテレビゲームをしていた。

 そこまでは、彼女は明確に覚えている。


 ただ、そこからは曖昧。


 気が付くと、痛みと混乱に沙世は涙を流しながら、一糸纏わぬ姿で、裸の男から出てきた粘性の液体を、その身に浴びていた。


 誰にも言えなかった。友達にも。母親だけしかいなかった家族にも。


 いま思えば、不用心だったな、と心に刺さった棘のような後悔とともに振り返れる。


 夜はほぼ毎日のように、猛り狂ったような兄さんの気味の悪い紅潮した顔を思い出す。その怖ろしい化け物の姿に寝付けず、数年たった今でも睡眠導入剤は手放せない。


 そしてそれ以降、彼女は自分の身体は、汚らしいもの、醜くておぞましいもの、否定の対象として認識していた。


 夜の街で、ネクタイ姿の中年男に声を掛けられたのは、そんな時。


 こんな、土塊(つちくれ)の石ころよりも価値のない身体が、バカな男を満足させ、それなりの金銭を得られるなんて思ってもみなかった。


 女としての反応はもちろんあった。

 だが、それは彼女にとって、私ってまだ死んでないんだなー、という一番簡単な確認作業でしかなかった。

 そこには、快楽や充足感など、一切、なかった。


 頼んでもいないのに金をくれる男が、勝手に満足するだけ。


 その金は、その日のうちに使うことにしていた。はじめは、捨てたり、燃やしたり、コンビニで寄付したりしていたが、裕福ではない片親の彼女が、自分のためにソレを使うようになるまで、時間はかからなかった。


 ただ、母親のためにそれを使うことはなかった。鼻を刺す臭いさえ発しそうな邪な金を、苦労の多い、大切な母親に対して使うなど、言語道断、親不孝にもほどがある、と彼女は考えたのだ。


 今となっては自分でも、バカなことをしていたものだと思う。


 愚かで、最低で、頭の悪い。

 後悔しか存在しない、私の過去。


 そんな過去の愚行が、現在の自分を苦しめるとは思ってもみなかった。


「五万くらい簡単に用意できるだろ?お前のアパートに取りに行くから。もちろん、それだけじゃねえからな?」


 電話口から、もはや不快感しか生まない鈴木一郎の声が響く。涙が出そうになるのを耐えて、沙世は震える唇をやっと動かす。


「あの……、頼むから、家だけは………、やめて」


「敬語使えよ、バーカ」


 冷たい声が、紗世を罵倒した。


「ごめんなさい。私の家だけは………、やめて下さい………。ホテルとか家とかは……、人に見られそうで嫌なんです。……どこか、人がいない場所が、いいです。あの……、お、お金は必ず、持っていきますから………」


「当たり前だろ、グズ。ノロノロしゃべんな。頭ワリィなあ……」


「………ごめんなさい」


 頭を使おうにも、恐怖で何も浮かんでこない。早く、こんな苦しみから、どうにかして、今すぐにでも、逃げ出してしまいたい。


「じゃあ、どこにすんだよ、あ?早く考えろよ、早くよぉ。こっちもヒマじゃねーんだ。……外か?人がいなさそうな公園とか神社とかか?ははっ。オメー、マジで変態だな?」


「……………………」


 急かす一郎の嘲笑。


 こんな。

 こんな男に。

 私の人生を。

 壊されるのか。


 兄さんが私を、壊したみたいに。


「おい、聞いてんのか?アタマ悪くて、言葉まで分からなくなっちまったか?」


 もう、沙世は考えることを放棄した。


 何も考えなくなったのではない。


 そうしよう、と決めただけ。


 決断、しただけ。


「す、すみません。でも、まだこの辺に詳しくなくて……」


 そう思い込んでしまうと、丁度良い話題になっているとも言える。

 そういえば、ちょっと前にこの辺でも、殺人事件があったな、なんて思い出しながら。


「バカか?そんなとこ……、あ」


 一郎の言葉が途切れる。沙世は次の言葉を待った。

 人がいない場所。

 あっちが思いついてくれるなら、好都合。


「良い場所があるなあ。やっべ、こりゃいいな。……じゃあ、これから教育学部の裏門まで金持って来い。ついでに遊んでやっからよ?」


 難しい場所だ、と沙世は思う。

 ふと目を向けると、アパートの戸棚には毎日お世話になっている薬。


「は、はい……。分かり……、ました」


 怯えたふりに変わった態度に、もちろん鈴木一郎は気が付かなかった。

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