日常の28『おんなのこ』
「吐きそう………」
やっと俺はそれだけ言った。
見慣れた部屋の中で、壁に掛かっている時計の日付を確認する。俺は、実家の二階、自分の部屋に帰ってきていた。
帰ってきた、という表現はおかしいかもしれない。
ミハルが言うには、今から五日後。善喜じいさんの豪邸で、ミハルの魔法を受けた俺の意識が、過去のこの時間、五日前の俺に憑依したような感じ、ということらしい。
いつもの三人、という言い方を自分でしていることに驚くが、異世界人二人と俺で、過去に時間移動することも可能だったそうだ。
だが、それだとこの世界の時間や俺たちの存在自体、懇切丁寧に説明されても俺は理解できなかったのだが、与える影響が大き過ぎるという話だった。
理解できなさ過ぎて、すごくハイリスクなんだろうなー、という感想しか俺は持たなかったのだけれど。
で、おそらくこの場面は、実家で引っ越しの準備をしていた五日前の俺だ。明後日には引っ越して、その次の日にはカリキュラムガイダンス。五日後には入学式だ。
そして、俺にとっての過去であるこの現在では、まだ存在すらしていない今回のバラバラ殺人事件が、起こるきっかけができた日でもある。
すでに俺は一階の洗面所に来ていた。鏡に映る男の顔は乗り物にでも酔ったかのように蒼白。まだ呼吸も整っていないのだが、こんなことをしている場合ではない。目覚まし変わりに顔を洗って、そのまま玄関から飛び出した。
体調が悪いせいか、日差しが痛いくらいに眩しい。脳がまだ、未来の俺に慣れていないのだろうか。頭痛にも似た圧迫感が頭の後ろにある。
脚が重い。流れていく住宅街の風景さえも気持ち悪い。
それでも走って、最寄りの電車の駅を目指す。大学の駅までは一時間というところ。
電車の中が一番つらかった。逸る気持ちを抑え、嘔気を我慢する。
こんな状態だったら、空いているシルバーシートに座ってもいいだろう。いや、しないけども。
電車から降りて、我慢できずに構内のトイレで吐いた。もう二度と、この魔法を受ける選択はしない。俺は心に決める。
改札、開くの遅しと駅を駆け、構外へと出た。
そこで俺は、警察署から出た俺にライガがしたように、両手を膝にあてて腰を曲げてしまった。ひゅーひゅー、と聞いたこともないような呼吸が自分から出ている。
「あ、あれ?……俺、こっからどうすればいいんだ?」
そう。俺は大事なことを教えてもらっていなかった。
事の顛末はミハルやライガから聞いていたが、時間を戻した後に、俺がどう動けばみんなを救うことができるのか、俺は聞いていなかった。
多分、彼女に会いにいけばいいのだろうが、あいつ今、どこに住んでるんだ?
汗が噴き出る。
それは、走って火照った身体を冷ますための汗ではなく、大きな間違いを犯す可能性があることを自覚した、冷や汗だった。
「あ、いたいた。ユリにーちゃん、おつかれー。ちょっとぉ、おそいよー?」
取り返しのつかない過ちに対する後悔もあって、俺は目の前から聞こえる声にすぐには反応できなかった。
その声を俺は知らない。少し舌足らずな、小さな女の子の声。
「……へ?」
俺は顔を上げる。腰を曲げた俺と同じくらいの女の子が、満面の笑顔で俺を見上げていた。
丁髷のように頭の上で、可愛いイチゴの飾りが付いたゴムで髪を結った女の子が、眼前には立っていた。
「とりあえず、だいいちもくひょーはしっぱいにおわったからー、ぷらんびーだよ?」
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