日常の10『陸前大学教育学部国文学科』
猪木寛一は陸前大学教育学部国文学課の研究室で、教授の長嶋大五郎(ながしまだいごろう)と対面していた。よれよれの白いYシャツから禿げ上がった頭に滲む汗をハンカチで拭きながら、彼は口を開く。
「ええっと、今日はどういったご用件で?」
猪木は出されたコーヒーを啜って、更に眉間に皺を寄せた。本棚に囲まれた小さなテーブルに向かい合って、二人は腰かけている。
「鈴木一郎君のことを教えていただきたいのです。この研究室に在籍していると、いや、在席していたと聞きましてね」
「ああ、鈴木君ですか。確かにこの研究室の学生です。……彼が何かしましたか?」
「何かしでかしそうな子だったんですか?」
猪木は長嶋の目を見据えたが、すぐにそれは逸らされた。
「いや、決して…。そんなことは、な、ないですけども……」
「このことはご内密に…、と言っても、今日の夕方のニュースで報道されるでしょうがね」
ひとつ、猪木はため息を吐いた。今日はこの大学の入学式があったらしい。そちらには警察から連絡し中止となったようだが、すべての職員に伝わっているわけではないようだ。または、研究職の人間が往々にしてそうであるように、彼も自身の研究以外には無関心なのかもしれない。
「鈴木一郎君ですが、今朝遺体で発見されました。彼のアパートでね」
「え、そんな……」
長嶋は驚きを隠さない。明らかに狼狽していた。
「他殺です。よって、我々警察が動いているわけです。で、ですね。まず彼がどんな人と為りをしていたのか、周囲の人たちに聞いてまわっているんですよ」
静かに、しかしながら有無を言わさぬ感情をこめて再度猪木は長嶋の双眸を睨む。
「お忙しいこととは重々承知しておりますが、ご協力いただけますか?」
「……はい」
「では、彼に最後に会ったのはいつですか?」
「……そうですね、あれは三日、いや四日前でしたか。ここに来て進路の相談をしていきました。彼は教職には就かないと言ってまして、どこか良い就職先はないか聞かれましたね。私は、どこかの企業にコネクションなどはありませんので、夏の三年次のための合同企業説明会に出るように伝えました」
「三日前か、四日前か。確かになりませんか?」
いつの間にか猪木はメモ帳を取り出している。後頭部を掻きながら独り言のように尋ねた。
「す、すいません。あれは……、あ!午前中の講義の後だったので、四日前です」
「そうですか。その時の彼の様子はどうでしたか?」
「どう、と言いますと?」
「何かに怯えていた様子だったとか、いつもと違う言動があったとか……」
「いえ、特には……」
その時だった。二人の話を遮るように、猪木の背後の扉からノックが2回響いた。助け舟でも出されたかのように「はい、どうぞ」、と長嶋が返事をすると、ガチャリ、とドアが開く。二人の男女が立っていた。
「あ、花束ちゃんじゃないか。入学式は終わったの?」
ポニーテールの女性の姿を確認して、長嶋はガタン、とイスの音を鳴らして立ち上がった。
「こんにちは、先生。入学式が中止になったので、その帰りです。……あ、来客中でしたか?」
顔の整った女性がそう言うと、長嶋の視線が猪木に向く。
「ええ、警察の指示で式は中止しました。鈴木一郎君の事件の影響で、ね。こちらは、先生の研究室の学生さんですか?」
「あ、いいえ。違います。一年生は研究室には所属しませんので。こちらは、天童花束さんと言いまして、彼女の亡くなった両親が私の知り合いでしてね……。そちらの男の子は、ええっと…、初めまして、かな?」
天童花束の隣の、特徴の乏しい男が挨拶をしようと口を開く前に、猪木はそれを制止した。
「二人とも、私はM県警の猪木という。すまないが、今ちょっと長嶋教授に大事な話を聞いているから、また今度にしてもらえるかな?それと……、新入生は早めに家に帰るように言われたと思うが?」
二人はそれで、すべて察したようだった。
「あ、すみません、先生。お忙しいのに。…また今度にしますね」
「あ、ああ…、こちらこそ。また来てくれると嬉しい……」
ガチャン、とドアが閉まった。大きな音を立てて、猪木はため息を吐く。
そんな猪木に恐怖を感じながら、ゆっくりと、おそるおそる長嶋は腰を下ろすのだった。
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