第28話 星屑の欠片が降ってくる④

 (1)


 あれは、いつの話だっただろうか。ミランダがルータスフラワーを追い出され、更に格下の娼館、ではなく、売春宿で働くようになって間もない頃だったような気がする。


 その日、ミランダは客引きに出向いたものの全て空振りに終わっていた。歓楽街の雑踏の中、表通りを一周してさえも自分を買ってくれる男が見つからない。 


 時間ばかりが無駄に過ぎて行く。

 今自分が身を置く売春宿の店主は口煩い性分に加え、時には暴力に訴えることも厭わない下卑た男だった。このまま客を連れずにのこのこ帰ろうものなら何をされるか分かったものではない。


 焦りと苛立ちばかりが募っていく。最も、二十代も後半に差し掛かり、美貌が少しずつ衰え始めたせいで近頃は客が捕まらない日が続くことはザラではあったが。


 こういう気分の時は無性に酒が飲みたくて仕方なくなる。客引きにかこつけて、どこか適当な酒場に入ろうかーー、否、危険を承知でサマセット通りをはじめとする裏通りまで出向くか。


 ぐるぐると思案を巡らせている内に表通りから外れた場所ーー、裏通りとの境まで足を進めてしまっていた。


 (……これはもう、裏通りで客引きをしてこい、ってことかしらね)


 歓楽街の裏通りは多くの浮浪者や犯罪者の巣窟と言われているだけに、長年ここで暮らすミランダでも出来れば立ち入りたくない場所。

 だが、店主に散々怒鳴り散らされたあげく、殴られるのも堪ったものではない。


 ミランダの額から冷たい汗がすうっと滲みでてくる。晩夏とはいえ、まだまだ暑さが残る時期。汗が噴くのは何ら不思議なことではないが、これは恐怖心からの緊張によるもの。


 怖気づく気持ちをどうにか奮い立たせ、ミランダは腹を括って裏通りへと続く路地へと足を踏み入れたーー、が、すぐに歩みを止めてしまう。

 ミランダが入り込もうとした、廃墟と見紛う程に鄙びた建物と建物の隙間から、人の気配を感じたのだ。


 人数は二人、漏れ聞こえてくる声からして一人は年配の男、呂律が回っていない様子から酩酊状態の酔っ払いとみた。もう一人はーー??


 危険だとは思いつつ、気になったミランダは二人から見て死角となる場所に身を隠しながら様子を窺う。


 もう一人は、若い女だ。


 深夜に、こんなうらぶれた場所を出歩くなんて間違いなくミランダのような娼婦だろう。大方、自分と同じく裏通りで客を引こうとして、質の悪い酔っ払いに絡まれてしまったに違いない。


 女は脅えながらも毅然とした態度で抵抗と拒否の意を示すものの、大の男の力に敵うはずもなく壁に押し付けられてしまっている。このままではきっと女は男に強姦されてしまう。

 現に、男は「誰にでも股開くような女が気取るなよ!一発くらい、ただでヤラせろ!!」などと喚き散らしている。


 誰にでも身体を許すのは見返りとして金銭のやり取りがあればこそ。

 そうじゃなきゃ誰が好きでも何でもない男となんか寝るもんか。


 男の発言に対し、憎々しげにチッと舌打ちをする。直後、彼女の横を大きく真っ白な影がサッと通り抜け、一目散に男と女の元へ駆け出していった。影が通った後には煙草と麝香の香りがふわっと漂い、ミランダの鼻腔を掠めた。


 その影が間近に迫ると、壁に押し付けられていた女は目を見張り、男は顔面蒼白となり慌てて女から身体を離したが時すでに遅し。

 白い影ーー、三つ揃えの白スーツを纏った、長身の男が力一杯突き出した長い脚によって酔っ払いは蹴り倒された。地に付した酔っ払いを白スーツの男は尚も容赦なく蹴り続ける。


「ハル!これ以上蹴るのは止めて!!この人が死んじゃう!!」


 壁に後ろ手をつき身体を支えていた女が悲痛な声で叫ぶ。すると、それまで狂気さえ漂わせていた男はぴたりと動きを止めた。しかし、痛みで起き上がることすらままならない酔っ払いを冷ややかな目で見下ろしながら、ドスの利いた低い声で呼びかける。


「おい」

 酔っ払いは返事を返さない。と言うよりも、痛みと恐怖で口すら利くことが出来ない。

「金を払ってこいつを抱く分には構わない。……それがこいつの仕事だからな。だが……、それ以外ではこいつに指一本足りとも触んな。絶対にだ。……分かったか??」

「…………」

「おい、返事は??」


 酔っ払いは返事の代わりに、地面に顔を擦りつけてはこくこくと何度も頷いてみせた。それを見た白スーツの男は侮蔑を込めた一瞥をくれる。


 険しい顔つきはそのままに今度は女の傍へと近づていく。女は男に怒鳴られるか、もしくは叩かれるのかと覚悟をしたのか、ギュッと目を固く瞑り身を竦ませた。

 白スーツの男は女を怒鳴るでも殴るでもなく、大きく嘆息した後彼女の身体を強く抱きしめたのだった。

 予想外の男の反応に吃驚した女が目を白黒させていると「……アダ。裏通りには行くなって、いつも言ってるだろうが……」と、男は女の身体を抱く力を益々強めた。


「……ごめんなさい……。どうしても、客が掴まらなくて……」

「そういう時はこっそり俺に言えって……。今回は無事だったから良かったものの……」

 男はそこで言葉を唐突に切った。

「……おい、覗き見とはいい趣味してんなぁ。『男爵様の囲い者』ミランダさんよぉ」

「失礼ね、こっちは好きで見ていた訳じゃないわよ。裏通りに行こうと思ったら、そこの女と倒れている酔っ払いがひと悶着起こしていたところに、偶々出くわしただけなんだけど。それと……、その通り名で呼ぶの止めてくれない??あの男に囲われていたのは、もう六年も前の話だし」


 男に鋭い視線を投げ掛けられたミランダも、負けじと琥珀色の大きな猫目で睨み返す。


「あぁ、そりゃ悪かったよ。以後気をつけるわ」

「そうしてくれるとありがたいわ、サリンジャーさん」

「その代わりと言っちゃなんだが、今夜の件は内密にしてくれないか。交換条件だ」

「別に構わないけど何を黙っていればいいの??見ず知らずの酔っ払いに暴行加えたこと??その女が貴方の情婦だってこと??それとも、貴方がこっそりとその女を買おうとしていること??」

「あぁ??全部に決まってんだろ??」


 男はミランダのもったいつけた物言いに苛立ち、言葉を荒げた。

 この男、黙っていれば端正な甘い顔立ちでなかなかの色男なのだが、どうにも口が悪すぎて柄の悪いチンピラにしか見えないのが難点である。


「あぁ、はいはい、分かったわ。全部黙っておいてあげる」


 ミランダは面倒臭そうに手をひらひらと振ると、「まぁ、せいぜいお姫様と仲良くやれば??じゃあ」と、表通りへと踵を返す。


 あの白スーツーー、ハロルド・サリンジャーという男は若さに似合わずやり手のポン引きであり、歓楽街でも名うての遊び人として有名だったが、近頃じゃ女関係の噂がめっきり途絶えてしまっていた。


(その原因が、まさか自分の店の娼婦と恋仲にあったことだったとはね……)


 泣かせた女は数知れない色男を射止めるなんて、中々やるわねーー、などと考えながら歩いていると、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえ、その声につられて振り向くと。さっきの女がミランダの後を、必死になって追いかけてきたのだ。

 ミランダが立ち止まると、程なくして女は追いついてきた。はぁはぁと息を切らしている女をさりげなく値踏みしてみる。


 女は思ったよりもずっと小柄だった。(とはいえ、ミランダと比べたら少し高いが)

 白磁器のように、きめ細やかで真っ白な肌に亜麻色の長い髪、エメラルドグリーンの大きな瞳が印象的だが、決して美人だとか綺麗とかいう類ではない。

 おっとりとした大人しそうな雰囲気も相まって、どことなく地味である。正直なところ、外見的な面ではあの派手な男とは釣り合っていない。


「私に何の用??」


 ぶっきらぼうなミランダの口調にややたじろぎつつ、ようやく息が整った女は「……あ、あの……」と言葉を詰まらせながら、二の句をついだ。


「ありがとうございます!ハルと私のこと、口外しないって約束してくれて助かりました!!」

「……別に、礼を言われる程のことじゃ……。……まさかと思うけど、それだけを伝えるためにわざわざ走って来た訳??」

「あ……、ごめんなさい……。もしかして、迷惑でしたか??」

 女の大きな瞳は不安気に揺れている。

「いや、迷惑ではないけど……」

「それなら良かった!ハルにも、やめておけと言われたけど……、どうしても伝えたかったの」


 呆気に取られているミランダに構わず、女は満面の笑顔を浮かべた。その笑顔は、青空に輝く太陽のように明るいものだった。


 もしかしたらあの男は、この女の純真さと天真爛漫な笑顔に惚れ込んでいるのかもしれない。


 かくいうミランダも、彼女の無邪気な笑顔によって、常にささくれだっている心が僅かに和んだくらいだ。

 そして商売敵であるにも関わらず、彼女と仲良くなってみたい、と、柄にもなく思ってしまった。


「私はミランダっていうの。ねぇ、貴女の名前、教えてくれない??」

「アドリアナよ。皆はアダって呼んでるの」

「そう。じゃ、私もアダって呼ばせてもらうわ。今後はよろしくね」


 ミランダの言葉にアダが再び微笑む。その笑顔に影響されたのか、ミランダも珍しく穏やかな笑顔を見せた。






(2)



「……だけど、アダはそれから一年くらいして、当時歓楽街を恐怖に陥れた通り魔に殺されてしまったわ……。そいつは娼婦ばかりを狙っては目も覆いたくなるような殺し方をしてた。その中でも、アダは最も残酷な殺され方で……。顔面を叩き潰され、四肢をバラバラに切り刻まれていたとか……。……あの娘はね、数か月後には恋人に身請けされて結婚するはずだったの。殺される一か月前に『ハルが来年店を継ぐことが決まったから、そしたら結婚しようって言ってくれたの』って、見ているこっちまで幸せな気持ちになれそうな笑顔で話していたのに……」


 長年の夢が叶うのを目前に控えながら非業の死を遂げた友人に想いを馳せ、熱くなった目頭を指先で押さえつける。そんなミランダを気遣うように、隣に座るリカルドがそっと肩を撫でさする。

 テーブルを挟んだ二人の真正面には、股の間に両手を挟み、力無く項垂れている少女ーー、スターが座っていた。


 洗濯屋で起きた一悶着後、リカルドに宣言した通りにミランダは、スターを強引に家へと連れて帰った。

 若さと無知ゆえの浅はかな理由で身を売るスターに、ミランダ自身の境遇を始め、自分の周りにいた娼婦達の境遇及び、それぞれが迎えた悲惨な末路を滔々と彼女に語ってみせた。


「何を勘違いしているか知らないけど、娼婦はお姫様や貴婦人になんか決して成れないわ。そんなのはただの夢物語でしかないの。一度娼婦に身を堕としたら、大抵の者は死ぬまで売春地獄から抜け出せなくて惨めに朽ち果てて野垂れ死ぬ。アダのように……、娼婦というだけで命が軽んじられ、無残に殺されてしまったりもする。私がこうして平凡な主婦として生きられるのも、亭主が迎えに来る前に病気にも罹らず殺されもしなかった運の良さに、たまたま恵まれたからってだけ。もう一度だけ言うわ、スター。売春なんてもう辞めなさい。貴女には幸せになれる可能性が充分あるのに、わざわざ自分で潰そうとしないで」


 スターはそれまで伏せていた顔を上げ、ミランダとリカルドを交互に見比べる。そのつぶらなマリンブルーの瞳には、反発の色はすっかり消えていた。


 五歳から二十九歳まで苦界を生き抜き、数々の修羅場を潜り抜けてきたミランダの話が持つ圧倒的な説得力を前に、何も言葉を返すことができずにいるのだろう。三人の間でしばらく沈黙が続いた。


「おば……、ミランダは……、アタシの母ちゃんになってくれるの??」

 沈黙の重苦しい空気に耐え兼ねたのか、スターがやや遠慮がちに口を開いた。

「悪いけど、私は貴方の母親になんかなるつもりはないわ」


 ミランダの突き放した冷たい言葉に、スターは傷ついた顔を見せたが構わず言葉を続ける。


「その代わり、貴女が一人でもちゃんと生きていけるだけの力が身につくよう、最大限協力するわ。しばらくは私達と一緒に暮らして家事を一通り覚えなさい。家事を覚えたら、住み込みで働ける場所を探すのよ。私やリカルドも手伝うから」

「何で……、アタシなんかにそこまでしてくれるのさ」

「さぁ、私も何でかだか分からない。ただ、貴女を見ていると昔の自分を見ているみたいな気になるのよ。無謀な夢を見ていた頃の自分にね。きっと、貴女を手助けすることで自分を救いたいのかもしれない……って、何気に酷い事を言っているわね、私」


 自嘲気味に、力無く口元を緩めるミランダに対し、スターがおどけたように鼻を鳴らす。


「……へっ、別に、正直でいいんじゃねぇ??『あんたの為を思ってしてあげるんだ』って、恩着せがましく言われるよりは、よっぽどマシだぜ」


 思いがけないスターの言葉にミランダは目を丸くし、苦笑を漏らす。


「そう??そう思ってくれたのならいいんだけど。でも、その男言葉はいただけないわよ。まずは言葉遣いから叩き直さなきゃね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る