第5話 氷の心②
(1)
ダドリーに対する疑惑と畏怖の念は強まる一方だったが、『いずれは彼に身請けされ、愛人の座くらいには納まりたい』という野望を、ミランダはまだ捨ててはいなかった。
一見華やかに見える厳しい苦界の中から抜け出すには、絶対に彼を手放す訳にはいかない。
店に現れたダドリーを出迎えたミランダは、彼のすぐ後ろで五人の男達が付き従っているのを目に留める。男達はいずれもダドリーと変わらない年頃――、二十代くらいだろうか。揃いも揃って流行最先端の高級スーツを纏っていた。
「ミランダ。今夜はこの者達と共に酒場に出掛ける。お前も付いて来るんだ」
ミランダが返事をするより早くダドリーは強引に彼女の腕を取り、歓楽街の喧騒の中へと突き進んでいく。五人の男達も引き連れて。
「ねぇ、ダドリー。あの人達は一体何なのよ??」
ミランダはダドリーと腕を組んで歩きつつ、時折、男達を気にしてチラチラと背後に視線を送った。
「心配しなくとも、彼らがお前に話し掛けて来ることはない。それよりも、前を向いてしっかり歩け。歩調が遅れる」
「そういう問題じゃ……」
「いいから黙ってさっさと歩け」
ダドリーは押さえつけるようにミランダを叱責した。彼の機嫌を損ねてはいけないと慌てて口を噤む。目的地である白い石造りの小さな大衆酒場い辿り着くまで、二人はひたすら無言で歩き続けた。
酒場の扉を開く。ダドリーとミランダは隅の方に置かれた二人掛けのテーブル席へ、五人の男達もカウンター席やテーブル席に着席し、各々が酒を飲み始めた。彼らの入店と入れ替わるように先客たちは一人、また一人と退店し、この場に残るはミランダとダドリーだけになった。
寡黙で無駄なおしゃべりを好まないダドリーに加え、この状況では会話が弾む筈などなく。ダドリーと二人、通夜のような雰囲気のテーブルに座ったまま、一向に中身が減っていかない自らの手中にあるビール瓶をじっと見つめる。
ミランダ達の重苦しい空気とは別に、男達は派手に酔っ払って大声を出したり、賭け事に興じだしたり、思い思いに騒ぎ散らし始めていた。その様子を、ダドリーは静かに酒を嗜みながら悠然と眺めている。
質の良い洒落た服装に反し、下卑た笑い声を店中に響かせてこの店の酒は不味いやら文句を垂れ始める。終いには酔って店の女給に絡んで困らせたりしている男達に対し、次第にミランダは激しい嫌悪感を募らせていく。
一人一人になれば、ただの小市民に成り下がるくせに。ダドリーの取り巻きと言うだけで周りに横柄な態度を取る彼らの浅ましさが目に余って仕方ない。
「顔色が悪いな。酒に酔いでもしたか??」
「別に酔ってなんかいないわ」
貴方の取り巻き達の態度が横着過ぎて、胸糞が悪いのよ。
喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、「ちょっと水もらってくる」とダドリーに告げ、ミランダはカウンターに向かう。
カウンターの隅では、その酒場で働く若い女がダドリーに気付かれないよう、苦々しげに取り巻き達を睨んでいた。目が合った瞬間、女はバツの悪そうな顔をしつつ、ミランダに話しかけてきた。
「あんた、あの道楽息子の新しい女でしょ」
女……、それは恋人という意味か情婦という意味か。判断し兼ねて曖昧に微笑んでみせる。
「あいつには気をつけた方がいいよ。女に夢中なうちは病的なくらい情をかけるけど、飽きたら最後、あの取り巻き達に女を好きにしていい、とあてがうんだ」
さも親切に忠告をしている、という口振りとは裏腹に、女はどことなく喜々とした表情でミランダに語ってくる。
「……まぁ、そういう人だと私も思うわよ」
意外に冷静なミランダの反応が面白くなかったのか。女は意地悪そうに唇を捻じ曲げて更に続けた。
「女に惚れ込んでいる内は、女を傷つける人間や物事を徹底的に排除する。やりすぎなくらいにね。でも、もしも、女が自分に逆らったり裏切るような真似をしたらーー、例えばそれが誤解だったとしても、誤解させるような態度を取るのが悪いってことで、殺されるか、それに近い目に遭わされるかかどちらかになる。つまり、惚れられていても気をつけないと……、地獄を見ることになるわよ」
「…………」
ミニーやベルタの県が頭を過ぎり、言葉を失う。ようやく動揺する表情を見せたミランダに満足したのか、女は勝ち誇った目をして厨房の奥へと消えていく。
ミランダは本来の目的であった筈の、水をもらってくるということも忘れて自席へ戻った。
「どうした」
「何でもないわ」
「嘘を付くな。さっきよりも顔色が悪い」
「そうかしら??あぁ、ちょっと酔っ払ったのかもね」
まさか、貴方の話を聞いて怖くなったから、などとは口が裂けても言える筈がない。何とか誤魔化そうとミランダはいつもの作り笑顔を浮かべようとした。
「……さっきまでカウンターにいた女か。お前に話しかけていたな」
「ちが……」
違う、と言い掛けたミランダを無視し、ダドリーはスッと席から立ち上がると、取り巻きの中でもリーダー格の男の席へ移り何やら耳打ちをし始めた。ダドリーが話し終えると、男は返事の変わりにニヤリといやらしく笑った。
ただならぬ雰囲気に嫌な予感を覚えた瞬間、男は手にしていたグラスをいきなりカウンター目掛けて投げつけた。それが合図だったと言わんばかりに、残りの四人も次々とテーブル、椅子をひっくり返し、グラスや酒瓶をカウンター席や窓に向かって投げつけ始める。
他の客から悲鳴が上がり、青ざめた顔で店主が男達の凶行を必死で止めようとするが、多勢に無勢では成す術がない。割れたグラスや酒瓶、皿の破片、こぼれた酒が飛び散り、茶色い木の床を無残に傷つけ、汚していく。
「ちょっと!!貴方、一体何を命じたのよ!!!」
「故意に客の気分を害させる女給がいるような店は、ろくな店じゃない。潰してしまってもかまわないから暴れたいだけ暴れろ、と言っただけだが??」
「……は?何それ??……って、こんなことしたら、警察に訴えられるわよ!」」
「あぁ、そんなこと。金さえ積めば警察は上手いこと立ち回ってくれる。警察だけじゃない、この街の人間は誰も私に逆らうことなどできない」
「……男爵家の子息だから?地位と財力使って揉み消すの?」
「あぁ、そうだ。何か問題でもあるのか??」
そんなこと当たり前だろう、と言わんばかりのダドリーは、自分とはまるでかけ離れた、遠い、遠い別世界に住む人間だと、ミランダは嫌と言う程思い知らされた。彼に身請けされたい、という野望が、ゆらゆら激しく揺らぎだす。
取り巻き達が大暴れしている隙に、ダドリーは酒代とチップをテーブルに置いてミランダを連れて酒場を後にした。というより、させられた。
表情こそ普段と変わらなかったが、女給の行動にダドリーの機嫌が損なわれたのは明白。ミランダはスウィートヘヴンに戻る道中、声一つ上げなかった。正確に言うと、ダドリーの傲慢さや冷徹さに恐れをなしていた。
スウィートヘヴンに帰った後もダドリーの機嫌は直らず、いつもよりもやや乱暴に、時折屈辱とも取れる要求を交えてミランダを抱いた。いくらダドリーに恐怖心を持とうと、自分を抱くのを拒否することは絶対にできない。
やがて、ミランダにとって長すぎる一夜が明けると共に、ダドリーは屋敷へと帰っていった。
爽やかな朝の陽光を浴びながら、玄関先でダドリーを見送ると一気にどっと疲れが押し寄せてくる。それだけ彼と過ごす時間が苦痛なのかもしれない。
ダドリーが乗る大型馬車の姿が完全に見えなくなったの確認すると、ミランダはすぐに部屋に戻って一服し始めた。
女の喫煙をダドリーがひどく嫌がるので、近頃は控えるようにしていたのだが。煙草を吸わなければどうしても落ち着かなかった。
天井に向かってゆらゆらと揺れる紫煙をぼーっと眺めていたミランダは、ふと、今日は週末の安息日だったことを思い出す。
(……今から少し眠って、昼過ぎくらいに、久しぶりに教会に出向いてみようかしら……)
まずは寝て疲れを取るために吸い終えた煙草を灰皿に押し付けると、ミランダはベッドの上へ倒れ込んだ。
(2)
眠りから覚めたミランダは一人で街を散策しながら教会へ向かっていた。
仕事柄、常に人を相手にしていなければならない上に、特にこの数ヶ月は外出する時は大抵ダドリーが一緒だった。寝る時以外の一人の時間はここのところ皆無に等しい。だから、今日のように数少ない貴重な休日の時だけは、完全に一人の時間を過ごしたい。
娼婦ではなくただの十九歳の娘になれる、唯一のひと時。化粧もせず素顔のまま、私服姿で歩く彼女はどう見てもごく普通の町娘にしか見えなかった。
(……そう言えば、前回教会へ行ったのはいつだったかしら??)
確か残暑が厳しい時期、汗をかきつつ、教会への道筋を辿っていたし歩道に並ぶ街路樹の葉が青々と繁っていた。今は枯葉となり、半分近くが地面に落ちている。
季節がすっかり様変わりしてしまったことで、随分と長い間私は一人で外に出ていなかったのだな、と、改めて実感する。
教会のすぐ目の前に辿り着くと、城壁のように高くそびえる黒い鉄柵をくぐって白い石畳で作られた階段を昇る。懺悔室を通り過ぎ、礼拝堂の扉を開けて中へと進む。安息日にしては珍しく、ミランダ以外誰もいなかった。
左右に置かれた長椅子の間ーー、真っ赤なヴァージンロードを踏みしめて祭壇の前まで更に進み、両手を組んで神に祈る。
――神様、どうか私に救いの手を――
ミランダは特別信心深い質ではない。それでも辛い事や悲しい事があると、昔から教会へと足を運んでは祈りを捧げている。
母に売られて以来、一見華やかなようでいて苦界である娼館では、下手に他人に弱みを見せればつけこまれ、馬鹿を見るーー、そんな生活を送るミランダには心から信用できる人間がいない。神への祈りは、その代わりみたいなものであった。
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