第20話 明美の回想~ふり返っても~

 けれども、男はゆっくりと、いかつい顔でかぶりをふりました。


「おまえじゃ、もう無理だ」


 とたん、トモ兄は蒼白になっている顔を歪め、男に殴りかかりました。

 そんなトモ兄、わたしは初めて見ました。

 でも、その男にかなうわけもなく、トモ兄の抵抗は男のビンタ一発で止められてしまいました。


 もう、すべて終わったんだ――

 わたしは、目の前がなにも見えない気分になりました。

 きっと、トモ兄も同じだったと思います。


 そのとき――


「あんたたち、いいかげんにしなさい」


 玄関には……律子さんが立っていました。

 いつもの優しい表情とは違う、目をつり上げた姿で。


 いぶかしる男たちが口を開く前に、彼女は毅然とした声で言いました。


「その子たちは、あたしの子供だよ。さあ、話があるんなら、あたしのとこに来な。となりの部屋だから」


「おいおい、あんたがこいつらの親だってのか? 血がつながってるようには見えねえがな」


「そりゃ、あんたらの目が節穴だからさ」


 ふん、とリーダーの男は鼻で笑いました。


「なんにしろ、こういうとこに首をつっこんできたんだ。あんた、覚悟はできてんだろうな?」


「そいつを見せてやろうってんじゃないか。さあ、ついてきな」


 彼らは、突然現れた律子さんの啖呵を見て、互いに顔を見合わせていましたが、リーダーの男が首の動きで合図すると、玄関の方へ向かいました。

 律子さんの提案にのり、彼女の部屋に行くことにしたんです。

 でも、リーダーの男は、部屋を出るときに「ちょっと待ってろ」と言って、わたしたちを脅すことを忘れませんでした。


 心の底から、わたしは怯えました。

 すると、その男たちの隙間から、律子さんがわたしたちに目を向けているのが見えました。

 彼女は、力強い瞳でわたしたちを見て、うなずいてみせました。


 男たちが去ると、わたしたちは呆然と、誰もいなくなった部屋の壁だけに目を向けていました。

 となりの部屋で、どんな話し合いがされているのかは、わかりませんでした。

 しばらくすると、トモ兄がぼそっと、こう言いました。


「逃げよう」


 わたしは、なにを言っているのかわかんなくて、「え?」って、問い返しました。 

 トモ兄は、今までにないくらい、血走った目を見せてきました。


「逃げるんだ。り、律子さんは、目でそう言ってた。今は、それしかない」


 情けないことに――

 そのときのわたしには、判断力なんてありませんでした。


 気がつけば、トモ兄に手を引っ張られて、外に飛び出していました。

 男たちは全員、律子さんの部屋に入ったみたいで、廊下には誰もいませんでした。


 半泣きしながら、わたしたちはひたすらに走って、電車に乗って――気がつけば、鹿児島中央駅にいました。


「おれはいったん、と、東京に戻る。明美も、そうしよう」


「わたしは……」


 まだ震える体をおさえながら、わたしは考えました――。


 震えが収まらないまま、なぜかこう言っていたんです。


「鹿児島に残る」


「まさか、引き返すのか?」


 トモ兄の問いに、わたしは、無言で首を横にふりました。


 わたしは……トモ兄のようにおもいきって東京に逃げることも、引き返して律子さんの元に行くことも、そのどっちも怖くて――

 結局は、宙ぶらりんになることを選んだんです。


 トモ兄は、そんなわたしを見て、目をつむりました。

 そのときのわたしには、息が詰まりそうなほどの時間でした。


 トモ兄は目をそっと開けると、わたしの肩にごつごつした手をのせてきました。


「そのうち、必ず……!」


 トモ兄は強い口調でそう言って、空港へと向かっていきました。

 わたしに、なけなしのお金を渡して――。


 それから、わたしは鹿児島市内にいる友達のアパートにひとまず身を寄せて、今いるお店で働くことにしたんです。

 あえて、源氏名は使いませんでした。

 そういう気持ちにならなかったんです。

 バカですよね……。


 借金取りの動向に怯え、律子さんを心配しながら、一カ月ほど経つと――


 携帯電話を持っていないトモ兄が、公衆電話から電話してきました。

 わたしは当時、携帯を二つ持っていて、一つは破棄して、借金とりに番号を教えていないもう一つのものを使っていたので、その携帯に連絡をくれたんです。

 トモ兄は、彼を雇ってくれる工房が見つかった報告と一緒に、わたしと住んでいたアパートの退去手続きをするために、明日鹿児島に来る、ということを告げてきました。

 わたしは、そんなトモ兄に早く会いたくて、携帯を握りしめながら、泣いていました。


 でも、その日、仕事が終わってお店を出ると――


 あの借金とりのリーダーがわたしを待っていました。

 わたしの視界は真っ暗になりました。

 考えてみれば当然です。

 あまりにも、わたしは浅はかでした。

 同じ鹿児島にいるんだったら、彼らにとって、わたしを見つけることなんて簡単だったでしょう。


 けれども、その男は、脅えるわたしに、耳を疑うようなことを告げてきました。


「もう、あんた方の返済は終わった。伊藤さんに感謝するんだな」


 それだけ伝えると、彼は去っていってしまいました。


 わたしは、その場にしゃがりこみ……泣きだしました。


 次の日、トモ兄は約束通り鹿児島に帰ってきました。

 それからトモ兄にヤクザの言葉を伝え、不動産屋まで行って退去手続きをしてから、わたしたちはアパートに向かいました。

 わずかに残った荷物を引き払うためと……今さらですが、律子さんに会うためです。

 けれど……もう、律子さんはいませんでした。


 彼女も、どこかに去ってしまったんです。


 トモ兄はああいう人だからある意味当然なんですが、律子さんも携帯電話は持っていませんでした。

 それに、毎日、直接顔を合わせて話せばよかったので、律子さんもわたしの携帯電話の番号は知りませんでした。

 間抜けなことに、あんなに近かった律子さんに会うすべを、わたしたちは失ったんです。

 わたしたちは、こう思いました。


 律子さんは、わたしたちのことを見限った――。


 当然のことです。

 どんな形であれ、わたしたちは、あの日、彼女を見捨てて逃げたんだもの。

 あげく、その後は怯えて、彼女に対して何もしなかったんですから。

 あの時、トモ兄は律子さんの目を見て、「おれたちに逃げろと言っている」って解釈したみたいだけど……。


 本当はもっと違う意味だったんじゃないかって、わたしは、トモ兄にあたりました。

 なんで、わたしたちは逃げてしまったんだって。

 トモ兄もわたしも、卑怯だって。

 もう、トモ兄の顔を見たくないって――。

 トモ兄は、何も答えず、ただ黙って立ち尽くしていました。


 そんなことがあって――

 わたしは、東京に戻るトモ兄を見送らず、彼が教えてくれた新しい連絡先にも連絡はしませんでした。

 トモ兄も、わたしに電話をくれることはありませんでした。

 でも、本当は……トモ兄の顔を見ることで、声を聞くことで、生々しい記憶のにおいを嗅ぐのが嫌だっただけ。

 トモ兄に会うことで、が怖かっただけ。


 本当は、律子さんに会う手段なんていくらでもあることも、わかってた……!


 でも、もう、律子さんはもちろん、トモ兄にも合わせる顔がなくて。

 自分が情けなさすぎて。


 そうして……日々だけが流れて、今に至っています。


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