第19話 明美の回想~悔いを被る~

                 *


 一年半ほど前のことです――


 前に少し話したけど、わたしは、鹿児島市の郊外にある運送会社で事務職をしていました。

 みんな優しくて、働きやすいところでした。

 定時には終わる仕事だったから、仕事終わりには一番街商店街に遊びに行ったり、そのまま帰って二人分の食事を作ったりして過ごしていました。

 はい、市内のアパートに一緒に住んでいたトモ兄の分もです。


 トモ兄は、いつも遅くまで工房にいました。

 勉強といっても、ある程度経験を積んだ職人の勉強ですから、そこでの労働も兼ねていたんです。

 トモ兄はコミュニケーションの下手な人だけど、そのぶん、包丁に語りかけるように仕事をする丁寧さがあるみたいで。

 そこの親方には、ずいぶんと重宝がられていたみたいです。


 わたしたちは子供の頃から一緒だったから、、二人での生活はうまくいっていました。

 でも、やっぱり、故郷を離れているから、どこか寂しいときもありました。

 そんなわたしたちに、すごく親切にしてくれたのが――伊藤律子いとうりつこさんでした。


 律子さんは、わたしたちにとって、もうひとりの母みたいな存在でした。

 彼女はわたしたちのとなりの部屋に一人で住んでいました。

 本当に、すごくすごく、素敵な女性でした。

 朝になるといつも、昨晩に作ったお芋の煮つけとか肉じゃがとかをおすそ分けしてくれたし、買いものだって何回も一緒に行きました。

 季節が変わると、桜島や知覧といった場所へ旅行にも出かけました。

 彼女はなんだって相談にのってくれたし、いつだって、わたしたちの味方でした。


 そう、わたしの大好きな人――


 ゴロタさんには、そういう人いますか?

 いつだって、温かい感情で自分を包んでくれる人。


 ――また、そんな意地張って。失くしてからじゃ、遅いんですよ。お父さんにもお母さんにも、妹さんにだって、いつかは恩返ししなくちゃ。


 あっ、すみません。

 なんか、えらそうですよね、わたし。


「失くしてから」って言ったけど……わたし、本当はそんなことを言う資格のある人間じゃないんです。

 わたしとトモ兄は、失くしたんです、その人を。

 律子さんを。


 わたしたちは……彼女を裏切ったんです。


 ある日、覚えたてのお酒を一緒に飲んでいると、ふと、律子さんはこんなことを言いました。


「たとえ、どんなに難しいことがあっても、本当に大切にしている想いを殺さないでね。それを殺してしまったら、あなたが生きていたとしても、死んでいるのと同じことなのよ。それは、どこにも辿り着けないことを意味しているの」


 その言葉を守れず――わたしたちは、


 鹿児島に来て律子さんと出会ってから二年ほど経つと、その頃のわたしたちの状況は最悪になっていました。


 トモ兄は、工房でよくしてもらっていた先輩の借金の保証人になっていたんです。

 ところが、その先輩は夜逃げしてしまって、気がつけば、トモ兄はそれなりの借金を背負うことになってしまったんです。

 ああいう人だから、工房の親方にはそのことが言えなかったみたいで。

 それどころか、工房に迷惑をかけるのを嫌がって、そこを辞めてしまったんです。 

 今までの貯金を全額、借金取りに払ったんですが、利子が足りないって脅されて……。


 わたしも――

 馬鹿な娘でした。

 当時つき合ってた男に騙されて、その男の代わりに借金を抱えていたんです。

 その頃のわたしは今にもまして無知で、彼を信じていました。


 けれど……彼は鹿児島を離れ、二度と戻ってはきませんでした。


 困り果てたわたしは、律子さんに相談することにしました。

 彼女には、そういう話をしたくはなかったんですけど……わたし、このまま風俗で働くしかないのかなって思ったら、体が震えだして。

 律子さんに話すことを最初はしぶっていたトモ兄も、わたしの親身を考えて、結局、同意してくれました。

 律子さんは、いつものように、優しい眼差しをわたしたちに向け、こう言ってくれました。


「わたしがなんとかするわ。友則は、よくそこまでお金を返したし、あとは利子分と明美の分でしょ? わたしに任せなさい。こうみえても、ずいぶんと貯めこんでるんだから」


 もちろん、わたしたちは、簡単にその好意を受けることはできませんでした。

 だから、律子さんとの話はいったん保留にしてもらって、弁護士に相談しようかとか、親にはとても言えないなとか、二人でまた色々と話し合いました。


 けれども――その次の日に、運命はやってきてしまいました。


 わたしもトモ兄も、たまたま同じサラ金会社からの借金を背負っていました。

 その会社は、実質、ヤクザが経営しているようなところで……。

 その連中が、アパートにやってきたんです。

 それまでも、何回か来てはいたんですが、暴れたりはしないで、少しだけ脅してみせたり、返す期限について釘を刺しにきていただけだったんです。

 でも、その日はいつもと違っていました。

 きっと、わたしの方が利子分さえ満足に返せてない状況が長引いたからだと思います。


 彼らは、家に上がってくるなり、無言で家財一式を運びはじめ、その中のリーダー格の男が震えるわたしたちを一瞥して、「黙ってろ」とドスの利いた声で言いました。

 暴れるでも怒鳴りつけるでもなく、ただ淡々と自分たちの作業をしていく彼らの姿が本当に恐かった……。


 お金になりそうなものをあらかた片づけると、そのドスの利いた声のリーダーが呆然としゃがみこむわたしに近づいて、こう言いました。


「あんたにゃ、ソープで働いてもらう」


 とたんに、頭が真っ白になりました。

 体のあちこちがしびれて、何を考えていいのかもわからなくなりました。


 そのとき、となりにいたトモ兄は、唇を震わせながらも、大きな声でわたしをかばってくれました。


「た、頼む! 明美には手を出さないでください! ぼ、ぼくが必ず全額返すから」

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