第九話 天に召す

「お父さん」


 ミラの感情プログラムが表に出たと同時に弦造は目覚めた。その弦造は無表情でシリル、いやミラを見つめている。しかしその目は先ほどと比べるとほんの数度程度は温度が上がっているように感じられた。


「今までよくいてくれたなミラ」


 弦造は一目でシリルとミラを判別できた。


「島谷、矢木澤ご夫妻のおかげです」


 ミラは落ち着き払った笑顔で父に語りかける。


「お前、いやその脳機能がまだ稼働していると聞いておもてにこそ出さなかったが、心の底では驚いていた。あの頃はまだこまっしゃくれた小娘だったはずの島谷医師とシリルが見事俺の筋書きの裏をかいたわけだ。してやられたわ」


「そう言わないでお父さん。あのお二人のおかげで今の私がいるんですもの」


「そうかもしれんな。こうして最期にミラに逢えたのは嬉しい。とてつもなく我がままなのは分かっている」


 浅く荒い息になりつつあるのも意に介さず、ふと何か思い立ちささやく弦造。


「ここにピアノがあればよかったんだが。そうしたらあの曲。あれは……なんだったか」


「ショパンの夜想曲ノクターン第19番ホ短調作品番号72-1?」


「そうそれだ。お前が最後に引いた曲」


「ふふっ」


「なぜ笑う」


「きっとお父さんがそう言うと思ったんでしょう。世界的に有名なピアニストさんが私にってこれを」


 弦造が訝しんでミラを見るとそこには円筒形に丸められた簡易キーボードがあった。


 両端を持って強く引っ張ると固い一枚のキーボードになる。


「本物のピアノには到底及ばないけれど聴いてね」


 ベッドサイドテーブルを引き寄せ、その上にキーボードを置いて丹念に情感を込めて弾くミラ。シリルのスキルスロットに頼らずミラ自身の感情プログラムに残されていたミラ自身の演奏だった。暗く暗澹あんたんとして救いを見いだせない曲が四分二十五秒続いた。


 目を閉じてじっと聞き入っていた曲が終わると、弦造の死ははや目前に迫っていた。


 ハルも病室に呼ばれ、二人で弦造の最期を看取る。


 一時いっとき意識を取り戻した弦造はゆっくりとミラへそのおもてを向け呟いた。


「ああ、ミラ。こんな父親だったが、それでも俺は俺なりにお前を愛していたのだ。許せ」


 ミラは涙ぐんで頭を振るばかりであった。


 そして弦造は頭を天井に向けた後何かを呟いたが、それは誰の耳にも入ることはなかった。ただ、ミラのシリルの聴覚センサーには雑音に塗れた微かな声で


「お前に心が、ある、と、言う……ならお……前、はあら――」


 と言う音声データが記録されただけであった。


 そして弱々しくも荒い息を繰り返しながら弦造は一言吐き出す。


「やっと、死ねる」


 よりはっきりした言葉で弦造が呟いてから数分。呼吸は次第に下顎呼吸かがくこきゅうとなり、やがてそれさえも停止し、新星暦紀441年六月八日十二時三十八分矢木澤弦造は惑星ローワンのグリンネイピアにあるホスピスで永眠した。享年七十九歳であった。

 弦造の死に顔は、自身が矢木澤家に納品されて以来、初めて穏やかな表情を見せた、とのちにシリルは述懐している。



◆次回

 第十話 ミラの願い

 2020年10月19日 21:30 公開予定


※2020年10月26日 加筆修正をしました。

※2020年10月29日 加筆修正をしました。

※2020年12月 1日 加筆修正をしました。

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