『夕暮れの光』
日が暮れる。最寄りの駅のホームに降りた私は自分の住むアパートに向かう。途中、スーパーで夕飯の買い物をする。白菜、しめじ、まいたけ、えのき、にんじん、ねぎと、ごま豆乳鍋の素を買う。タイミングを見計らって、いつも通り下野さんが担当するレジに並ぶ。簡単な会話を交わしてスーパーを出る。今度ご飯に誘ってみようと思う。
スーパーを出るとすぐに駅の線路にぶつかって右に曲がる。そのまま歩くと川が見えてくる。その川で左に曲がる。川沿いを歩く。そのまま歩いていると大きなお寺が見えてくる。そのお寺の門をくぐると長い階段が現れる。一段一段踏みしめて登る。意識して踏みしめるとそれなりに汗をかく。16段ずつ分かれていて、それが5つある階段だ。最後の16段を上がりきる。ネクタイをゆるめて近くの大きな石の上に座る。すぐ横に自動販売機があるのでそこで緑茶を買う。ほとんど飲み干してしまう。ここでの飲み物の時間が至福の時間。だから会社を出る3時間前あたりからいつも飲み物を我慢している。すっきりした飲み物は体に染み渡る。血管一本一本に水分が行きわたり、からだ全体を潤していく。
立ち上がってお寺の横を通過していく。そのまま進んでいくとちょうどお寺の裏手の細い路地に出る。左に曲がる。少し進むとまた階段にたどり着く。その階段を下る。毎日ここで出会う散歩のおじいさんにあいさつをする。下った先で右に曲がる。私が住むアパートが見えてくる。二階建ての二階の角部屋。一階は大家さんが住んでいる。その大家のおばさんが毎日掃除をしてくれるので、築30年以上になるが綺麗なアパートだ。鉄でできた階段を上がるとトン、トン、と音が鳴る。廊下にアブラゼミが上を向いて足をばたつかせている。誰かに踏まれないように拾い上げてやるとそのまま羽ばたいて遠くの方に飛んでいった。
ドアの前にたどり着いて頭から順番に埃を払うように足まではたいていく。これは母親から教えてもらった。母親が家に入る前にしなさいと、小さい頃に教えてくれたのでそのまま今でも続けている。悪いものを落とすというちょっとした幸せのおまじない。
ドアを開けて中に入る。買い物袋をキッチン台の上に置く。手を洗って鍋の支度をする。にんじんの皮をむき、一口大に切る。そして白菜、しめじ、まいたけ、えのき、ねぎも一口大に切っていく。鍋に豆乳鍋の素を入れる。昨日買っておいた豚肉のこま切れを鍋の底に入れる。火を入れる前に入れると柔らかくておいしくなるとテレビで言っていた。その上に野菜を入れる。鍋を火にかける。弱火にセットする。次に冷蔵庫からお米を出して研ぐ。炊飯器にセットして「白米急速」のボタンを押す。鍋はまだ煮えていないのでそのままにして、部屋着に着替える。着替え終わり、キッチンに向かう。冷蔵庫を開けて発泡酒を取り出して蓋を開けて一口飲む。鍋が少し煮えてきたのでおたまを使って軽く混ぜる。豚肉の色がピンク色から茶色に変わり始めている。もう少しすると沸騰し始める。発泡酒を飲みながら鍋の中を見つめる。火を止めるタイミングを待つ。くつくつと具材がゆっくりと動き出す。もう後少しで沸騰して泡が出始めるので火を止める。沸騰する直前で火を止めるのがちょうどいいおいしさになる。蓋を閉めて、あとは余熱で火を入れていく。そうこうしているうちにピーっと音が鳴り、ご飯が炊ける。炊飯器を開けてしゃもじで底から混ぜる。しゃもじで少しすくって味見をする。茶碗にご飯をよそう。鍋敷きをリビングのテーブルに置いて、鍋を置く。
テレビを見ながら夕飯を食べ終える。食べ終わった食器をキッチンに持っていき、すべて洗ってしまう。残った鍋は明日また食べることにしよう。少し酔いが回ってくる。鍋を食べたのでほのかにからだ全体が温かい。このまま寝てしまうと思ったので浴室に向かう。服を脱いで洗濯機に突っ込み、シャワーを浴びる。今日の汚れをすべて洗い流す。浴室から出ると、温度差が涼しくて気持ちいい。そのまま歯磨きをする。15分かけてしっかり綺麗に磨く。頭を乾かしてリビングに戻る。ベッドの上に座る。電気を消して真っ暗にする。カーテンを開けると月が綺麗に見える。ベッドの上に座り直して静かに月を見上げる。だんだんと意識が透明になっていく。壁にゆっくりともたれかかる。
そのままゆっくりと壁の向こう側に倒れこむ。向こう側の地面はふわふわしている。空を見上げるとそこにも月がある。ここはもっと静かな場所になっていて、薄いオレンジ色の世界が広がっている。遠くの方で水の音が聞こえる。川が流れているのだ。川の流れる匂いがしてくる。その川に向かおうと思う。空には雲一つなく、月がくっきり姿を見せている。歩いているとだんだんと川の音が近づいてくるのがわかる。とはいっても川の流れはとてもゆるやかで、川上からは誰かが作ったであろう笹の葉の小舟が流れている。
岸辺にはひとりの女性が待っている。スーパーで働いている下野さん。彼女は真っ白なワンピースを着ている。とてもよく似合うねと言うと、あなたもと微笑みかけてくれる。私は部屋着だよと言うと、くすっと笑って、それでもよく似合っているわと微笑んでくれる。彼女が手を差し出してきて、私は優しくその手を握る。そして二人で川沿いを散歩する。彼女の手は握った時、いつもひんやりしている。私はその手を温めたいと思う。私の気持ちがわかるのか温かいと言ってくれる。川の向こう側には森が広がっている。野うさぎやリスが走り回っている。私たちがあいさつをすると恥ずかしがって木陰に隠れるのだが、すぐにひょこっと顔を出してこちらを見てくる。私たちは顔を見合わせてかわいいねと笑う。子連れの鹿が川の水を飲みに来る。私たちがいることを警戒もせず、彼らは水を飲んでいる。水飲みに飽きたのか小鹿が親のからだに顔をこすりつけている。わかったわかったと水を飲むのをやめて、彼らは森の中へと消えていく。
私たちが歩いている先の方から葡萄の香りが漂ってくる。たくさんの葡萄を入れた大きな樽の中で、少女たちが裾をまくって葡萄を踏んでいる。ワインを作っているのだそうだ。彼女たちが声をかけてくれて、私は気を使って断るが、下野さんは参加して彼女たちと一緒にワインを作りに勤しむ。近くにいるとその香りで辺りが充満するのがわかる。彼女たちと下野さんの踏んでいる光景はとても美しく、私は近くの大きな石に腰掛けてその作業を眺める。彼女たちのお母さんが私のもとにやってきて、ワインが入ったグラスを渡してくれる。今日できたばかりのワインだそうだ。お母さんもグラスを持っていて、鼻の前でグラスを回して匂いを確かめている。私もグラスを回してみる。先ほどの葡萄の匂いとは違う、熟成された果実の匂いがする。少し口に含むとさらにその香りは鼻全体に広がっていく。
作業を終えた下野さんが私のとなりに座る。私がグラスを差し出すと、にっこり笑う。彼女も私と同じように心から味わっているのがわかる。私の肩に頬を預けてくる。作業を終えた少女たちが川で水遊びをしている。その光景を私たちはずっと眺めていられると思う。言葉を交わさずとも同じことを思っていることがわかる。そのことがとても嬉しく幸せで、葡萄の香りに包まれた彼女の香りがよりいっそう私を幸せな気持ちにしてくれる。目をつむると、やがて二人の間に誕生するであろう命が見える。その命はろうそくの火のように儚い。だからこそ私は彼女と二人で大事に包んであげようとする。大事に大事にその生命のともしびを抱きしめてあげる。
目を開けると、下野さんの腕の中には小さな赤ん坊が眠っている。親指をくわえたその赤ん坊は幸せそうにすやすやと眠っている。最愛の人との間に生まれた子を愛することができるということが、こんなにも尊いものなのかと私は感動している。その横で彼女も同じように想ってくれている。その子の名前は二人で話し合って「あかり」と名付ける。あかりはすくすく成長していく。あかりはやがて歩き出して、私たちは三人で散歩する。川沿いを歩きながら、下野さんは葡萄を踏んでワインを作ったことをあかりに話してあげる。私はいつかあかりが大きくなって、下野さんと二人でワインを作っている光景を思い浮かべて微笑む。あかりは不思議そうに私の顔を見上げてくる。私は優しくあかりの頭をなでてあげる。あかりは笑い返してきて、私の先を走っていく。あかりが走っていく先に大きな船が見える。船までたどり着くと、その船を見上げているあかりを抱っこして肩車してあげる。船長が顔を出してきて、あかりにあいさつをする。その船は月まで行くということなので、三人で船に乗ることにする。船にはハンモックがあって、私たちはハンモックで昼寝をする。ハンモックに揺られながら三人で歌を唄う。その歌を聴いて小鳥たちが飛んでくる。あかりは小鳥たちにあいさつをすると、小鳥は持っていた小さなりんごの実をあかりにプレゼントしてくれる。みずみずしく光るそのりんごを頬張って、あかりはおいしいと言って笑顔になる。小鳥は歌のお礼だよと言って、またどこか遠くへ飛んでいく。
月に到着すると、船長がロープを月の地面にほうり投げる。すると、岩の影からひょっこりとうさぎが顔を出してロープを岩にくくりつけてくれる。私たちが降りようとしていると、船長さんが一本のロープをくれる。月ではすぐにふわふわ浮いてしまうので、三人が離れ離れにならないようにということらしい。ありがとうと言って、私たちはロープを握って船を降りる。
月にはたくさんのうさぎがいる。彼らはいつもぴょんぴょん飛び跳ねている。それなのに彼らはロープを持っていないので、一度ジャンプするとなかなか戻ってこない。空を見上げるとたくさんのうさぎが宙に浮いている。下野さんとあかりはふたりでかわいいねと見上げている。私も空を見上げながら、うさぎのようにジャンプしてみたいと思う。そして、下野さんもあかりも同じようにジャンプしてみたいと思っている。私たちはせーのと掛け声をして同時にジャンプする。みるみるうちに地面から遠く遠く離れていく。途中でたくさんのうさぎとすれ違う。すれ違いながら彼らとあいさつを交わす。下を見ると、乗ってきた船がどんどん小さくなっていくのがわかる。
再び前を見ると広大な宇宙が広がっている。私たちは星しか見えない宇宙を飛んでいる。下野さんとあかりはにこにこしながら私を見ている。私は彼女たちに微笑み返す。私はロープをたぐり寄せて下野さんとあかりの手を握る。三人で手をつないでどんどん遠くへ飛んでいく。途中で私たちは太陽にあいさつをする。元気な太陽はにっこり笑い返してくる。私たちはどんどんどんどん飛んでいく。
やがて宇宙の果てが見えてくる。宇宙の果てはどんどん広がっている。その果てに私たちはたどり着く。私たちはその果てに手を差し伸べる。指が触れる。すると、世界はまばゆい光を放ち、すべてを吸い込んで消えた。
その光は、どうやら夕暮れの光に似ているらしい。
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