第164話 憧れの形


 



「春香、大丈夫?」


夕食を終えて、まゆがお風呂に入りに行き、リビングに僕と春香だけになったタイミングを見計らい僕は春香に尋ねる。


「うん。大丈夫…だよ…」


まゆには心配をかけたくないから…とまゆの前では明るく振る舞っていた春香だったが、やはり僕と2人だけになると少し元気がなくなっていた。


「今はまゆいないから…無理しなくていいよ。おいで」


ソファーに座り僕が春香に言うと春香は思いっきり僕に抱きついてきた。僕は大丈夫だよ。と声をかけてあげながら春香の頭を撫でる。




今日のパート練習の時間…


チューバパートでは2つの意見がぶつかっていた。課題曲のtrio部分は春香が1人で伴奏を吹くべきと言う及川さんの意見と、1人で吹きたくない。吹けない。と言う春香の意見だ。僕の意見としては…実際に春香がtrioを吹くのは確定事項のようなものだ。だから、春香が吹きやすい環境を整えてあげたい。そのために春香が僕に一緒に吹いてほしいと言うのなら、僕は春香と一緒に吹く道を選ぶ。


及川さんは僕の言うことは最もだ。と納得はしてくれる。だが、認めてはくれない。今、春香を甘やかしてしまうと来年が心配だ…と……もし、何かしらのハプニングで及川さんと僕が参加できなくて春香が1人で吹けない。と言われても困る。及川さんは来年、チューバパートのパートリーダーは春香だ。だから、強くなれ、1人でも最高のパフォーマンスで演奏できるようになれ。と春香に言う。


そのようなことを僕は春香に絶対に言わない。言えない。だって…春香の側には絶対に僕がいるから…でも、及川さんが言いたいこともわかる。結果、春香と及川さんが言い争う形になってしまい、今日のパート練習はかなり複雑な形だった。


そんな気まずい状況のパート練習終わりだが、やはり、まゆに余計な心配をかけたくなかったのだろう。パート練習で揉めたりした様子を一切感じさせないようなレベルで自然とまゆと関わっていてすごいと思った。


「りょうちゃん…やっぱり、私…1人で吹いた方がいいのかな?」


春香は僕にどう答えて欲しいのだろう。一緒に吹きたい。とか一緒に吹こう。とか答えて欲しいのだろうか…でも、僕は……


「春香、僕は春香に1人で吹いてほしい」

「え…」


僕の答えが意外だったのか、春香は僕と目を合わせた。そして、僕が本気でそう思っていると理解したようだった。別に春香を苦しめたくて言っているのではない。ただ……


「春香の音のファンとしては、やっぱりでっかい舞台で憧れの音を目一杯響かせて欲しいなって思うんだよ。会場にいる人たちにさ、どうだ。うちの春香は…僕の憧れは…こんなにすごいんだぞ。って…自慢してやりたい」


大好きな春香の音、憧れの春香の音を聴きたい。広い舞台で、最高の舞台で、誰よりも近い場所で…


「だからさ、吹いてよ。春香がすごいんだってこと、僕の憧れは最高のチューバ奏者だって、証明してよ。お願い」


僕が全てを言い終わると春香はすごく嬉しそうな表情をして、瞳には涙を浮かべていた。照れ隠しをするように僕を強く抱きしめて少しすると……



「わかった。1人で…吹いてみる。ファンにそこまで言われたらやらないわけにいかないもんね。最高の舞台で最高の音聴かせてあげるから…覚悟しておいてね。でも、追いつけない。とか言わないでよ。りょうちゃんは私と同じくらい上手くなって、ずっと私の隣でチューバ吹いてないと許さないから…」

「わかってるよ。これからもずっと、春香の隣の席で座っているよ。春香の音、本当に楽しみにしているね」

「うん。もし…もし、だよ。どうしても1人じゃ無理だったら…助けてくれる?」

「もちろんだよ。挑戦して、無理だったら…その時は仕方ない。でも、僕が憧れたチューバ奏者なら、これくらい余裕でこなしてくれるはずだよ」

「憧れに理想を抱き過ぎじゃない?」


春香は笑いながら僕に言うが、そんなことはない。僕の憧れのチューバ奏者は、頑張り屋さんで、負けず嫌いで、やると決めたことは必ずやり遂げる。自分にも他人にも厳しい努力家だから…そんな、チューバ奏者にできないことなんてないはずだ。と僕は思っている。


「今度…練習付き合ってね……」


春香はそう言いながら僕を強く抱きしめたので、僕はもちろんだよ。と返事をしながら、春香を強く抱きしめてあげる。



「あ、春香ちゃんだけずるい…」


僕が春香を抱きしめているとお風呂から出てきたまゆが僕たちにそう言い、僕の側にやってきて僕に抱きついてきたので、僕はまゆも抱きしめてあげる。


「じゃあ、次、私お風呂入ってくるね」

「うん」


僕の返事を聞いた春香はリビングを出てお風呂場に向かう。


「ちゃんと話せたみたいだね。春香ちゃん、吹っ切れたみたいで安心した」

「気づいてたの?」

「もちろん。あの程度じゃまゆを誤魔化すなんてできないよ」


まゆは笑いながら言う。それだけ、春香のことを見てくれているんだな。


「ありがとう。たぶん、まゆじゃどうしようもできなかったからさ…春香ちゃんの力になってくれてありがとう」

「お礼なんて言わないでよ。当たり前のことをしただけだよ。ただ、憧れのチューバ奏者にエールを送っただけさ…」


春香の綺麗な音をコンクールの舞台で響かせてほしい。僕はその一心で行動をしただけなのだから…






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