想いは、無くなりません。



 笹谷ささたに 朝音あさねは、不安だった。



 彼女は、どんな手段をとってでも真昼を自分のものにするつもりでいた。誰と敵対することになっても、誰を傷つけることになったとしても、朝音は絶対に真昼が欲しかった。


 彼女には、自信があった。自分が優秀だと自覚している朝音は、真昼を絶対に振り向かせる自信があった。……しかしそんな彼女でも、自身の胸の内に巣食う不安を完全に取り除くことはできない。



 朝音は、不安だった。



 例え真昼に選んでもらえたとして、その先はどうなるんだ? 狡猾で悪辣な自分の本質を知られてしまったら、真昼に嫌われてしまうのではないか? よしんばその本質がバレなかったとしても、自分みたいな女では真昼が飽きてしまうのではないか?


 そんな、恋をしたことがある人間なら誰しもが感じる不安。しかし、今までそんな不安を感じたことが無かった朝音は、それを放置することができなかった。



「今の私じゃ、ダメだ。このままじゃ、真昼に満足してもらえない。このままじゃ……ダメなんだ……」



 そう考えた朝音は、ありとあらゆる手段を模索した。優秀で、しかも常識に縛られない朝音。そんな朝音が本気になって、何日も何日も考えて続けた。


 どうすれば、ずっと真昼に愛し続けてもらえるのか。その方法をずっとずっと考え続けて……そして彼女は、1つの結論に至る。



「そっか。今のままの私じゃダメなら、別の私になればいいんだ……。今の私は怖くてちょっと、強すぎる。こんな女じゃ、真昼も嫌になるに決まってる。……だから、とびっきり弱い私になろう。私を構成するありとあらゆる記憶を捨てて、何も知らないただの弱い笹谷 朝音になる。そうすれば、きっと真昼も愛し続けてくれる。弱い弱い私なら、真昼は優しいから……ずっと側に居てくれる。側に居て……私を守ってくれるんだ……」


 自分の記憶を、自分で捨てるという常人なら考えもしない発想。……いや、考えたところで、できる筈が無いと鼻で笑うような考え。しかしそれは、朝音にとって不可能なことでは無かった。


 人間の脳とは、あらゆる刺激にあらゆる反射を返す器官。そして記憶とは、その刺激と反射の積み重ね。そんな記憶を自分の意思で捨てるには、現実と記憶の結びつきを1つずつ解いていくしか方法は無い。


 だから朝音は、その結びつきを解くことにした。自己催眠と自己暗示。彼女は長い時間をかけて、自分を捨てる準備を進めていった。



 ……けれど、順調に作業を進めていた朝音は、2つの問題に行き当たる。1つは、真昼への愛情。真昼への愛情は、自分の根幹をなすもの。だからそれを捨てなければ、記憶を失くす事なんてできない。しかしそれを捨ててしまえば、自分が記憶を捨てる意味も無くなってしまう。


 全ては、ずっと永遠に真昼の側に居る為に行うこと。だから彼女は、真昼への愛情だけは失くす訳にはいかなかった。



 だから彼女は、ペンダントを用意した。それは、ずっと欲しかった真昼とお揃いのペンダント。彼女はそれを真昼と付き合うずっと前に手に入れて、何度も何度も真昼にプレゼントする姿を想像した。そこに全ての愛情を注ぐように、彼女はそのペンダントを通して真昼を愛し続けた。



 だから全てを捨てたとしても、そのペンダントを見れば、真昼への愛情を思い出せる。



 そして、もう1つの問題は手紙。真昼の愛情が綴られた、宝物のような手紙。そんな手紙を見てしまうと、どうしたって心が動いてしまう。記憶を失くした後でも、その手紙を見つけてしまったら、全ての記憶が戻ってしまうかもしれない。それくらい、朝音にとってその手紙は大切なものだった。



 だから捨てるなんて、朝音にはできない。



 けど家のどこに隠しても、いつかきっと見つけてしまう。だからって、捨てることなんてできない。……なら、家の外に隠すしか方法は無い。



 だから彼女は、考えた。



 何物にも変えられない、とても大切な手紙。それを隠すとするならどこかいいか、彼女はそれを必死になって考えて、そして……決めた。



「桜の木の下に埋めよう」



 真昼が告白してくれた、自然公園。真昼との思い出が沢山つまったあそこなら、この手紙を隠すのに丁度いいだろう。



 そう決めた朝音は深夜のうちに家を出て、手早く手紙を桜の木の下に埋めてしまう。そして彼女は、そのまま日が昇るのを待ち続けた。


 長い長い、夜だった。でも朝音の胸には、不安は一切なかった。だってこれからは、ずっと真昼と一緒に居られる。真昼がずっと、自分を守ってくれる。



 なら怯える必要なんて、どこにも無い。



 ……こんな女より、もっと弱くて可愛げのある女の方が、真昼も絶対に喜んでくれるに決まってる。



「笹谷 朝音。今の貴女じゃ、真昼の側には居られない。だから……」



 ──消えて。




 登り始めた朝日に向かって、朝音はそう言葉を投げかけた。そのたった一言で、笹谷 朝音と世界を結ぶ全ての糸が、解けてしまう。




 だからもう、ここに居るのは今までの笹谷 朝音では無い。ありとあらゆる強さを捨て去った、弱い弱い笹谷 朝音。



「…………」



 愛情のこもったペンダントだけを握りしめて、そうして彼女は産まれた。



「……早く、渡さないと」



 そんな彼女が一番初めに感じたのは、強い不安だった。握りしめたペンダントを見つめていると、早く真昼に会いたいという強い感情だけが暴れ回る。だから彼女は居ても立っても居られなくなって、当てもなく街を彷徨う。



 そして運悪く車に轢かれて、彼女はもう一度、病院で目を覚ます。



 朝音は優秀ではあったが、完璧では無い。そしてその優秀さも、自らの意志で捨ててしまった。だから運が悪ければ、彼女はそこで死んでいたかもしれない。



 ……しかし彼女は、生き残った。それだけが事実で、それが全てだ。



 だから彼女の思惑通り、弱り切った笹谷 朝音が真昼の前に現れた。



 長い時間をかけて、何重にも暗示をかけた。だから、例えどんなことがあったとしても、自分の記憶が戻ることは無いだろう。……桜の木の下に埋めた手紙だけが唯一の例外ではあるけど、しかし余程のことが無い限り、あんな所を掘り起こす人間なんて居ない。



 だから全ては、朝音の思惑に通りに進んでいた。







 ……けど、それだけ。




 それでも真昼は、前に進むことを選んだ。自分たちを害する少女たちから逃げ回るのでも戦うのでも無く、向き合おうと決めてしまった。



 なら朝音も、いつまでも眠り続けることはできないだろう。



 ……朝音は気づいていない。自分はただ、愛され続ける自信がなかっただけ。そして真昼も、同じことを思っていたんだと。




 彼女はとても強い人間だった。



 ……それ故、とても脆い少女だった。だから彼女は全てから目を逸らし、長い眠りについた。



 それを知って、真昼は思ってしまった。彼女が自分の意志で記憶を失くしたかもしれないと知った時、彼は一番初めにこう思った。



 もしかして姉さんは、俺と付き合うのが嫌になって記憶を捨てたんじゃないか、と。



 だから真昼も、目を逸らし続けた。ただ朝音との行為に溺れるふりをして、彼女の記憶が戻ってしまうようなことを避け続けた。



 ……でも彼は、向き合うと決めた。



 だからここからは、眠っている暇も立ち止まっている暇も無い。眠っている朝音に出会う為に、真昼は全速力で走り出した。



 ◇



 赤い夕焼けに染まった浜辺で、俺は姉さんに問いかける。



「なぁ、姉さん。本当はさ、記憶を戻す方法……知ってるんじゃないか?」



 そうして物語は、最終局面を迎える。


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