……ドキドキしますか?

 


 会長……桃花とのデートを終えて、日が暮れる前に家に帰る。今日は色々なことがあって、少し疲れた。だから早めに夕飯を食べて、もう寝てしまおう。そんなことを考えながら、家の扉を開く。


「おかえり、お兄ちゃん」


 すると、まるで待ち構えていたようなタイミングで、摩夜が声をかけてくる。


「ただいま、摩夜」


 でも俺は特に驚くことなく、そう言葉を返す。……摩夜がこうやって出迎えてくれるのは、最近では珍しく無い。夜中に訪ねて来たり、デートに乱入しなくなった代わりに、摩夜はいつも俺を出迎えてくれるようになっていた。


「お兄ちゃん、今日は……って、あれ? …………お兄ちゃん、ちょっといい?」


 摩夜は何かに気がついたように言葉を途中で止めて、ゆっくりと俺の方に近づいて来る。


「……どうかしたのか? 摩夜」


「…………」


 摩夜は言葉を返さない。ただ黙って、俺をぎゅっと強く抱きしめる。そして、まるで犬みたいに俺の首筋に鼻を押し付けて、クンクンと匂いを嗅ぐ。


「摩夜、くすぐったいって」


「…………お兄ちゃん。嘘をつかずに、正直に答えてね? ……今日、会長さんとなに……したの?」


「なにって……普通にデートして来ただけだけど……」


「……普通、か。やっぱりあの女は、嘘つきだよ。…………何がキス以上のことはしない……だよ」


 摩夜は小声で何かボソボソと呟きながら、強く強く俺を抱きしめる。


「……摩夜、どうしたんだよ? というか、そんなに強く抱きしめたら痛いって」


「お兄ちゃん。会長さんとキスしたでしょ? ……ううん。この感じだと、もっと先のこも……やってるよね?」


「────」


 どくんと、心臓が跳ねる。摩夜は最近、少し大人しかった。でもそれは、他の皆んなが大人しかったからなんだ。


 今日、会長とキスをした。しかもそれは、ただのキスじゃ無い。そんなことをしてしまったら、摩夜が黙っているわけがない。


 ……そもそもなんで、摩夜も姉さんもぱっと見ただけで、俺が今日なにをしてきたかが分かるんだ?


 いや今は、そんなことを考えている場合じゃ無い。とりあえず、摩夜に事情を説明しないと、摩夜はどんどん暴走してしまう。


「摩夜、桃花は別に悪くないんだ。悪いのは──」


「お兄ちゃん、会長さんのこと名前で呼ぶんだね。……しかも呼び捨て」


「いや、それは……」


「…………」


 摩夜は黙って、俺の胸に顔を埋める。熱いくらいの摩夜の体温を感じる。けど、その表情は見えない。悲しんでいるのか。それとも怒っているのか。そんなことすら、俺には分からない。


「……でも、大丈夫だよ? お兄ちゃん。私はね、ちゃんと分かってるから。……ごめんね、私がちゃんと守ってあげるべきだった。……こんなに、あんな女の匂いがついちゃって……嫌だよね? 大丈夫。私が全部、消してあげるから……」


 摩夜の潤んだ瞳に俺が映る。ドキドキドキと、心臓が脈打つ。このままだと、摩夜の勢いに飲まれてしまう。それは分かる。でもそれだと、いつもと何も変わらない。


 だから摩夜が動く前に、俺は言った。


「摩夜。大丈夫だよ? 俺は、大丈夫だから。摩夜が俺を想ってくれるのは嬉しいけど、でも摩夜が無理しなくてもいいんだ。だから……」


 優しく摩夜を抱きしめ返して、その頭を撫でてやる。これ以上、摩夜が思いつめないように。摩夜もきっと、桃花と同じなんだ。ただ少し、自分の想いを持て余しているだけで、摩夜の本質は昔と変わらず優しいままの筈だ。


 だから俺は、少しでも落ち着くようにと、摩夜の頭を撫でてやる。



 落ち着いて優しく接すれば、摩夜もきっと分かってくれる。そんな思い違いを、したまま……。



「…………分かったよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんが大丈夫だって言うんなら、私はそれを信じる。……でもその代わり、お風呂入って来てよ、お兄ちゃん」


「いいけど。なんで、お風呂?」


「他の女の匂いがするとお兄ちゃんと、一緒にご飯食べたく無いの。お兄ちゃんはいつものお兄ちゃんの匂いじゃ無いと、私、安心できないの。……ダメ?」


「……いや、いいけど……。うん、分かった。分かったよ、摩夜。じゃあ風呂沸かせて、すぐに入ってくるよ」


「うん。ありがとう、お兄ちゃん」


 そしてやっと、摩夜は俺から手を離してくれる。


「あ、そういえば今日の夕飯は……」


「私と姉さんで用意してるから、大丈夫。……姉さんはちょっと途中で、どこかに出かけちゃったけど……」


「姉さんは出かけてるのか。……いやそれより、いつもありがとうな。最近は料理、2人に任せっぱなしになってる。だから今度は、俺も一緒に作るよ」


「うん。でも、料理は私が作ってあげたいんだ。お兄ちゃんに少しでも、私を感じて欲しいから。……それより、ごめん、お兄ちゃん。やっぱりもうちょっとだけ、抱きしめさせて……」


 俺が答えを返す前に、摩夜がぎゅっと抱きついてくる。先程とは違って、優しい感触。だから俺は黙って、それを受け入れる。


 そんな風に摩夜の気がすむまで、抱きしめてやる。そして俺は、宣言通りに風呂に入る。これで摩夜も、納得してくれるだろう。



 ……なんて、都合のいい勘違いをしたまま……。



 そもそも全部が全部、上手く出来るような人間なら、こんなことにはなっていない。だからこれは、やっぱり俺が悪い。少し頭を撫でてやったくらいで、摩夜が納得してくれるだなんて、そんな訳は無かったんだ。



 でも俺は、そんなことにも気がつかなかった。



 ◇



 シャワー浴びながら、ぼーっと鏡を見つめる。するとふと、声が響いた。



「お兄ちゃん。入るね」



 摩夜はそう言って、俺が返事をする暇も無く風呂に入って来てしまう。


「……え? ……いや、ちょっと待って、摩夜なにしてるんだ!」


 そう言葉を響かせるけど、摩夜には届かない。摩夜はタオルで身体を隠しもせず、真っ直ぐに俺の方に歩いてくる。振り返る訳にはいかない。けど鏡にも、摩夜の姿が映る。どこに視線を向けていいのか、分からない。


 そんな風に俺が意識している一方で、摩夜は特に気にした風も無く言葉を続ける。


「お兄ちゃんとお風呂に入るの、久しぶりだよね。……ふふっ、もしかしてお兄ちゃん、照れてる? 私は妹なんだから、裸を見てもいいんだよ?」


「……いや、そんな訳にはいかないだろ? 摩夜も俺も、もう子供じゃ無いんだし。それに……」


「血が繋がってないから?」


 摩夜は耳元で、そう囁く。俺は、動くことができない。


「…………今日、お兄ちゃんが会長さんと何をしたのか。それはもう、聞かないよ。お兄ちゃんが大丈夫だって言うんなら、私はそれを信じる。……けどね」


 摩夜は背中から、優しく俺を抱きしめる。


「お兄ちゃんが汚されるのは、許せないよ。お兄ちゃんに触れていいのは、私だけなのに……。でもお兄ちゃんが困るからって、最近は我慢してたのに……。でも、お兄ちゃんは会長さんに、触れたんでしょ? なら私だって……いいよね……?」


 ……拒絶しなければならない。流石にこのまま、受け入れることはできない。会長のお陰で、俺は気がつくことができたんだ。向き合うってことは、傷つくことで傷つけることなんだと。


 ただ優しいふりをして、全てを受け入れるのは誰の為にもなりはしない。


 だから俺は、背中に当たる摩夜の感触を努めて意識しないようにしながら、口を開く。



「摩夜──」







 けれどそれは、もう1つの声に容易く遮られてしまう。



「あれ? もしかして、2人でお風呂はいってる? ……なら私も、入っちゃおー!」


 そう言って、姉さんも風呂に乱入してくる。俺はもう、何も言えない。


「…………」


 覚悟を決めたからといって、自分の欠点に気づけたからといって、何か世界が変わる訳じゃない。俺の生きている世界は、昨日と何も変わらなくて、だからそう簡単に全てが上手くいく訳がない。


「……姉さん。邪魔しないで」


「ふふっ、邪魔ってなんの邪魔? 摩夜ちゃんは今から、何をしようとしてたのかな?」


「姉さんには関係無い」


「なんで? あるに決まってるよ。……だって、私の真昼に裸で抱きつくなんて、ね。私もね、そこまで許した覚えはないよ? 摩夜ちゃん」


「…………」


「…………」


 2人が睨み合う。どうしようもないほど、心臓が早鐘を打つ。俺は呼吸するのも忘れて、必死に頭を悩ます。



 けど、そんなことに意味は無い。



 本物の狂気を前にして、常人が頭を悩ませても意味なんて無いんだ。俺は結局、向き合うと決めただけで、彼女たちの狂気を理解できた訳じゃ無いんだから。



 日が暮れる。どうしようもない夜が、また始まった。


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