いつのことですか?

 


 その日、俺は朝早くから1人で公園に遊びに来ていた。小学……何年の頃だっただろう? あまり覚えてはいないけど、その日は確か、姉さんと摩夜が家を空けていたから、俺は暇を持て余していたんだ。だから1人、公園で遊んでいた。


 そして、俺は1人の少女と出会う。


「…………」


 その少女は、風が吹けば飛んでしまうくらい弱々しく、儚かった。真っ白な髪を風になびかせて、人形のような虚ろな瞳でただ空を見上げる。


「なあ、何を見てるんだ?」


 だから俺がそう声をかけたのは、ただの気まぐれでは無かったのだろう。でも当時の俺は、それに気がつかない。


「…………空を見てるの」


 少女は消え入りそうな声で、言葉を返す。視線は空に、釘付けなままで。


「楽しい?」


「ううん」


「じゃあ、なんで見てるんだ?」


「……赤くなるのを待ってるの」


「赤く……? 夕焼けのことか? ……でもまだ昼前だぞ? ずっとここで、待ってるつもりか?」


「うん。……あたし、赤い夕焼けが好きなの」


 少女はそう言って、空を見上げ続ける。俺は何故だが、その視線を自分に向けたくて、だから、そんな言葉を口走ってしまう。


「じゃあ日が暮れるまで、俺と遊ばないか?」


「────」


 少女は驚いた顔で、俺を見る。その時初めて、少女と目が合った。淡い赤色。少女の瞳は、夕焼けみたいな赤色だった。


「……もしかして、嫌か?」


「…………ううん。でも、あたしと遊んでも……つまらないよ?」


「なんで?」


「だって、あたしは何も……できないから……」


「…………」


 何もできない。その時の俺は、その言葉の意味が分からなかった。だから簡単に、少女の手をとってしまう。


「何もできない奴なんていねーよ。いいから、行こうぜ?」


 そうして、俺と少女の1日限りの冒険が始まった。



 ◇



 まず初めに、2人でブランコに乗った。


「…………」


 ……けど、少女は何もできないと言った言葉の通り、ブランコを漕ぐことができなかった。


「こう、勢いをつけて、足を動かせばいいんだよ」


 そんな風に少女に説明してやるけど、少女は上手く漕ぐことができない。


「……ごめんなさい」


「なんで謝るんだよ。……じゃあ俺が背中を押してやるから、ちゃんと鎖を握ってろよ?」


「……うん」


 優しくゆっくりと、少女の背中を押してやる。少女の背中は、押せば壊れてしまうくらい弱々しくて、触れるたびに俺の心臓はどくんと跳ねた。


 ……けど、



「…………! ブランコ、乗れてる。見て、あたしブランコに乗れてるの……!」


 少女は笑ってくれた。まるで空でも飛べたみたいに、少女は驚きと興奮の声を上げる。


「大袈裟だな。……いやでも、楽しいんならそれでいいか」


「うん! ありがとう!」


 少女は簡単に、笑ってくれた。ちょっとブランコに乗れたくらいで、夢のように笑ってくれた。だから、人形のようだと思った初めの印象は、きっと勘違いだったのだろう。


 ……そんな風に勘違いした。少女はただの普通の女の子なんだって、俺はそう勘違いしてしまった。



 ◇



 そしてしばらく2人でブランコに乗った後、俺は少女を近くのラーメン屋に連れて行った。家の近所にあった小さなラーメン屋。ラーメン一杯300円で食べられたその店で、俺は少女にラーメンを奢ってやった。


「…………」


 けど、少女は半分も食べず、箸を止めてしまう。


「どうした? ラーメン嫌いだった?」


「ううん。……ちょっと、お腹減ってないの。だから代わりに食べてくれる?」


「あ、そうなのか? なら無理に連れてきて、悪かったな」


「ううん。凄く美味しかった。……ありがとう」


「……なら、いいけど」


 俺は、少し申し訳ない事をしたな、と思いながらも少女の分のラーメンも食した。少女はそんな俺の姿を、どこか遠い目で眺めていた。


「じゃあ、腹も膨れたし……どうしよう? どっか行きたい所ある?」


 ラーメン屋から出て、俺は少女にそう尋ねる。少女はそれに少し悩むような仕草を見せてから、ポツリとその言葉をこぼす。


「……海に行きたい。あたし、海を……見てみたい」


「…………海、か。結構、距離があるな。バスにも乗らないといけないし。金は……まあ、あるか……」


「……ダメ、かな? ……いや、やっぱり海はやめとこう。あんまり遠くに行くと、危ないもんね……」


  少女は申し訳無さそうにそう言って、俺から視線を逸らしてしまう。俺は少女のその仕草を見て、軽く息を吐いて言葉を告げる。


「いや、構わないよ。ちょっと遠いけど……まあ夕方までには帰ってこれるし、問題ないだろ」


「……いいの?」


「いいよ。別に、宇宙に行く訳じゃ無いんだしな」


「宇宙に行けるの?」


「無理だから、海に行くんだよ。いいから、行こうぜ?」


 そして2人で、バスに乗る。なぜか酷く、心が浮ついていた。ドキドキしてワクワクして仕方がなかった。


「お金……ごめんね? 今度絶対に、返すから」


 少女はバス代を持っていなかったから、代わりに俺が立て替えた。少女はそれが申し訳なかったのか、何度も何度も俺に頭を下げる。


「だからいいって、別に。それより、何で海なの? まだ海開きには早いだろ?」


「……あたし、海って見たこと無いの。だから一度でいいから、見てみたいなって思ってたんだ」


「珍しいな、海を見たこと無いなんて」


「あたし、あんまり外のことは知らないの。本で読んだり、テレビで見たり、後は……妹の話を聞いたりするくらい」


「ふうん。ならまあ、楽しみにしとけよ。見慣れりゃ大したもんじゃ無いけど、初めて見るときはすげーびっくりするぜ?」


「……うん!」


 そんな風に言ったけれど、当時の俺も覚えてなんていなかった。初めて海を見た時の記憶なんて。しかしそれでも、なぜか俺はそんな言葉を口にする。多分きっと、少しでも少女に笑って欲しかったのだろう。



 そして、バスを降りてしばらく歩くと、海が見えた。


「…………凄い……」


 少女はそう言って、唖然と海を見渡す。その景色は俺にとっては見慣れたものだけど、少女にとっては初めてのもので、だから少女はまるで異世界に来たかのように、唖然と海を見渡す。


「…………」


 俺はそんな少女の姿を眺めて、小さくため息をこぼす。……少し、不安だった。少女は少し歩くだけで、すぐに息を切らした。バス停から海まで、1キロも離れていない。なのに、少女は何度も休憩を入れないと歩き続けることができなかった。


「ありがとう。こんな遠くまで、連れて来てくれて。……貴方が居なかったから、あたしはずっと……空を見上げることしかできなかった」


「……いいよ、 別に。大した距離でも無いしな。……それより、身体は大丈夫なのか? 何か病気だったりとか、しないよな?」


「…………うん、大丈夫だよ。……まだ大丈夫な、はず……」


 少女は弱々しい声でそう言って、服が汚れるのも気にせず砂浜に座り込む。俺は少し不安に思いながらも、少女に倣って少女の隣に腰掛ける。


「海、綺麗だな」


「うん。凄く凄く、綺麗。……青色は嫌いだった筈なのに、こんなに綺麗だなんて思わなかった……」


「青色、嫌いなのか? 珍しいな」


「……青色はね、ずっと見てると気が滅入るんだ。ずっと綺麗だって思ってた筈なのに、ある日突然……怖くなっちゃった。……でもこの青は、凄く綺麗……」


 少女と2人、海を眺める。波の音が、世界にこだまする。それ以外は何の音も聴こえ無くて、まるで世界が止まってしまったかのような錯覚を覚える。ずっとこのまま、永遠に海を見ていたい。そんならしくも無い幻想に、俺は浸っていた。



 ……でも、永遠なんてどこにも無い。仮初めだった永遠は、少女の一言によって簡単に打ち砕かれる。



「あたしね、病気なんだ」



 少女のその一言は、さして以外でも無かった。なのに何故か、胸がぎゅっと痛む。


「…………」


 だから俺は、上手く言葉を返せない。


「……もうずっと長い間、病院に入院してるの。1日の半分くらいは、空ばかり眺めてる。……嫌いになっちゃうくらい、ずっと……」


 だったらなんで、1人で公園なんかに居たんだ? なら今こんなところにいるのは、不味いんじゃないか? なんて、当たり前の疑問を口にする気にはなれなかった。


 だってそんなの、少し考えれば分かる。


 少女は逃げて来たんだ。そしてできることなら、一刻でも早く病院に戻るべきだ。そんな事は、分かっていた。なのに俺は……言えなかった。……もう少しだけ、側に……居たかったから。


「……でも、いつかきっと好きになれると思うよ。……だって空の青は、海の青と同じなんだから」


「…………うん。そうだよね」


 少女は空を見上げる。俺はただ、前だけを見つめる。


「あたしさ、今度手術するんだ。……失敗したら……死ぬかもしれない。……怖い手術」


 少女は空に手を伸ばす。何を掴もうとしているのか、俺には分からない。……けれど、それは俺にとっては当たり前のものなんだってことは、何と無く分かる。


「…………じゃあさ、手術が成功したらパーティでも開いてやるよ」


「……パーティ?」


「何か楽しみがあったら、辛いことでも乗り越えられるだろ?」


「────」


 少女は驚いた顔で、俺を見る。俺は少し照れ臭くて、少女から視線を逸らしてしまう。


「さて、帰ろうか。これ以上遅くなったら、公園で夕焼け見れないもんな」


 そう言って立ち上がって、少女に手を差し出す。


「……うん。そうだね、帰ろっか。海には、またこればいいんだもんね」


 少女と2人、海に背を向ける。そして静かにゆっくりと、2人で歩く。


「パーティってさ、コスプレするんだよね。あたし、知ってるよ」


 少女は唐突に、そんなことを呟く。


「……そうなの?」


「うん。あたし、テレビで見たよ。パーティでは、色んなコスプレをするらしいんだ。オバケとか、サンタさんとか、ケーキとか!」


「…………ケーキは、おかしくね?」


「なんで? あたしケーキ好きだよ? ……あんまり食べたこと無いけど……」


「そっか。なら、俺がケーキのコスプレ作ってやるよ」


「……作れるの、そんなの?」


「手先は器用なんだよ」


「すごいね。……じゃあ、お願いするね」


 少女は笑う。活き活きとした顔で、少女は笑う。俺はそれが嬉しくて、強く優しく少女の手を握る。


 そうやって俺たちは、バスを待つ。その間、しばらく沈黙が降りた。理由は分からないけれど、俺も少女も少しだけ黙り込む。けれど、俺はふと疑問に思っていた事を思い出して、それを尋ねる為に口を開く。


「そういえば、なんで夕焼けが──」



 好きなんだ?



 そんな当たり前の言葉が、少女に届く事は無かった。少女が夕焼けを見る事も、パーティをすることも、コスプレをすることも無く、全部全部、終わってしまった。


 唐突に、理不尽に、誰かのせいで、少女の命は永遠に止まってしまった。



 ──どこにも無い筈の永遠は、確かにそこにあった。



 少女に声をかける。聞こえない。何度も何度も声をかける。でも……。


 どこかの誰かが呼んだ救急車のサイレンが耳朶を打って、少女は遠くに行ってしまう。俺はただ、それを見つめていた。



 後悔した。嫌になった。逃げ出したくて、情けなくて、どうしても……怖かった。



 きっと、一目惚れだったんだと思う。だから俺はらしくもなく知らない少女に声をかけて、ダメなことだと分かっていたのに少女の側に居ることを優先した。




 それが全てでは無いけれど、それが切っ掛けになったのは確かだ。



 その日、俺は夕暮れを見た。彼女が好きだと言った夕暮れを、たった1人で見つめていた。



 そんな懐かしい、夢を見た。


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