商人の我輩、羊を数える。

増えすぎた夢の羊たちは、夢の終わりとともにすべて消えるのか?





 我輩は今、広大な草原の中で寝転がっていた。




 ふと右を向くと、遠くから羊が走ってきた。


 羊は我輩を跳びこえた。羊が1匹。


 続いて、羊が2匹。


 羊が3匹。羊が4匹。羊が5匹――




 ――羊が……えっと……52000匹。


 ここまで数えて、羊たちが来なくなった。


 そういえば、先ほどから羊たちを呼んでいるのだが、彼らの数が足りなくなることはあるのだろうか?

 そう考えているせいで、羊がこないのだろうか。


 もしかしたら、羊は永久的に増え続けているのではないか。それなら、飛び終えた羊はどこへ?


 そう考えると、右から52001匹目の羊がやってきた。


 羊が52001匹。


 52001匹目の羊は、我輩を飛び越えると左へと走り去っていった。


 我輩が左を見てみると、




 52001匹目は、増殖した羊たちの波に、後ろ足を出して刺さっていた。






 ――ここまでが、夢の話。

 今、我輩はホテルの中で目を覚ました。






 数時間後、我輩はビジネスバッグを片手にタクシーに乗り、広大な平原の中を進んでいた。


 見渡す限りの砂ならぬ、見渡す限りの草。青空に大きな雲がボツボツ浮いており、まさしく今朝の夢に出てきた草原そっくりだ。ベッドは見当たらないが。


「お客さんも物好きですね。“変異体”が大量発生しているという区域を見てみたいとは」

 運転手の女性は我輩に興味があることを、バックミラーの目つきで表した。

「仕事でこの辺りに用事があるから、ついでにと思っていたのである……それにしても、珍しいものだ」

「珍しい? なにがです?」

「我輩はよくタクシーを利用しているが……変異体が出るとウワサされている場所に行くとすると、たいていは行くのを渋るものだ。ところが、貴様は快く引き受けた」

 我輩が珍しいと言った理由を話すと、運転手はなぜか小さくガッツポーズをした。

「変異体は私も興味があるんですよ。普通の人間が見ると恐怖に襲われる、元人間の化け物……その性質上、発見され次第警察に捕獲され、施設に隔離される。場合によっては、駆除されることもあるんですよね?」

「ああ、向かっている区域に大量発生している変異体もその類いである」

「確かあそこって、警察の見張りがたくさんいませんでした?」

「いや、人を襲う変異体ではないらしい。まあ、少なくとも数人はいるだろうが」






 変異体が大量発生しているという区域から離れたところに、1本の大木が生えている。


 我輩はその木の前で停めるように頼んだ。

「こんなところでいいんですか?」

「ああ。目の前で停めると、見張りがよってくるからな」

 我輩は財布から料金分の札束を運転手に渡し、車から降りた。


 扉を閉めても、運転手は動こうとはせずに窓から我輩を見ていた。

「仕事の方はしばらく時間がかかるから、もう帰っても問題ない。また来てくれると助かるが」

 とりあえず適当な理由を付けて返そうとしたが、運転手の女性は車を走らせずにこちらを見つめて、なぜか色っぽいウインクを繰り返した。

「……何しているのだ?」

「あー、えっと……もしよろしかったら、仕事が終わったら飲みに行きませんか?」

「……」

 確かに、仕事終わりにはちょうどいいかもしれんが……我輩は仕事以外では酒はあまり飲まない主義だった。

「悪いが、辞めておこう」

「それなら、食事だけでもどうですか? おいしい店を紹介しますよ」

「もう予約をしている店がある」

「……」


 運転手は突然ふくれっ面をしたかと思うと、タクシーを急発進していった。


 ……あと数歩前に出ていたら、足をタイヤで引かれていたかもしれない。




 我輩は木の側の地面を見て回った。

「たしか、この辺りに岩があると聞いたが……」


 その岩は、大木を半周するとすぐに見つかった。


 マンホールのような皿の形をした岩は、成人男性がなんとか持ち上がるほどの大きさだった。

 その下には、1人の大人が入れそうな大きさの穴があった。懐中電灯で照らしてみると、飛び降りることは問題ないが戻ってくるのはちょっと難しい高さだ。


 我輩は懐中電灯の明かりをいったん消すと、そばの大木にロープを巻き付け、穴の中に垂らした。

「……今のうちにつけておくか」

 我輩は変異体に対する耐性を持っていない。タクシーの運転手が言っていたとおり、このまま変異体を目にしてしまえばすぐに叫び声を上げてしまい、仕事どころではない。

 持ってきたビジネスバッグから、ゴーグルを取り出し、装着する。このゴーグルを付ければ、その恐怖を和らげることができるのだ。





 ローブで穴の中に下りると、そこはまるでトンネルのようだった。天井の高さは、我輩が手を上に伸ばすと手のひらが当たるぐらいだ。

「……?」

 目の前に動いているものが見えた気がする。

 懐中電灯を再び付けて正面に向けると、目の前に変異体の後ろ姿が見えた。


 その変異体は、ゆっくりとこちらを向いた。




 大きさは、このトンネルの高さと同じぐらい。


 見た目は、4足歩行をした人間だ。


 体の全体は土で茶色く汚れた羊毛に覆われており、顔も見ることも出来ない。


 だが、その体の細さは、どこか人間らしさを残している。




 羊の変異体はこちらに興味を示していないのか、すぐに前を向き、手を動かし始めた。その先を懐中電灯で照らしてみると、どうやら穴を掘っているようだ。

 反対側を向くと、トンネルが続いている。どうやらこの先を進めば、仕事の依頼者に合えるようだ。


「……羊が1匹」


 我輩は夢の感覚が抜けていないのか、変異体の方を見てつい口にしてしまう。


 変異体は、我輩を気にすることもなく、ただ穴を掘り続けていた。




 トンネルを歩いていると、目の前からなにかがこちらに向かってくる。


 変異体だ。それも、先ほどと姿はまったくおなじ。それが2体いる。


 違うのは、先ほど目にした羊の変異体よりも小さいことだ。我輩の膝あたりの大きさだろうか。それと羊毛の汚れ具合がやや少ないこと以外は、先ほどの変異体と変わらない。


 2匹の変異体が我輩の前まで来ると、1匹は右、もう1匹は左に手を当て、それぞれ壁を渡って我輩の横を通っていった。

 なるほど、壁を歩けるのならマンホールのような地上への道を作ることができる。


「羊が2匹に、羊が3匹……」


 我輩はまた夢の中に出てきた羊のことを思い浮かべてしまった。


 そして、嫌な予感がして口をふさいだ。






 嫌な予感は的中した。






 トンネルの奥には、依頼者があらかじめ下ろしていたロープが垂れている。


 それを上がった先にあったのは、巨大な影。


 もはや野球場のドーム並の巨大な羊の変異体が空を隠していた。


 その下には、1匹目の変異体よりも大きなものから、


 アリのように小さいサイズまで、


 さまざまな大きさの羊の変異体が、草原中を埋め尽くしていた。




「……」


 我輩は穴から顔を出して、絶句した。


 確かに、変異体が大量発生しているとは聞いた。


 だが、みなが同じ変異体であるとは聞いていなかった。




「……ン? モシカシテ、商人サン?」


 後ろからの声に振り返ると、普通の羊ぐらいの大きさの変異体が、他の変異体をかき分けてやって来た。

 どうやら、彼が依頼者らしい。






 我輩は、変異体相手に物を売る行商人である。


 今回はあるお得意様の紹介で、彼に変異体専用のスマホを渡しにきたのだった。


 彼はお得意様の親友だというが、我輩と彼が直接会うのは初めてだ。






「ゴメンヨオ、僕、勝手ニ体ガ分裂スルミタイデ……友達ガ言ワナカッタ?」

 スマホを受け取った依頼者は、4足歩行であるにも関わらず、スマホを起用に扱っていた。その胴体には、我輩が渡したばっかりのハンドバッグがかけられている。

「ああ、まったく教えてくれなかった。まさか、我輩が依頼を断るなんて考えでも持っていたのだろうか」

 ふと、彼の羊毛の一部分がぽろりと落ちた。野球ボール並の羊毛がもぞもぞと動くと、そこから手と足と顔が生え、どこかへ歩いて行ってしまった。

「……あんなふうに増えるのか?」

 我輩は穴から顔を出したまま、新しい変異体の分身の行方を眺める。

「ウン。新シク分裂シタ方ハ、知能ハアマリナイミタイダケド」

 依頼者はため息をついた。困惑しているのは我輩だけではないようだ。

「貴様もこの状況に迷惑しているのか?」

「ン? ウウン、モウダイジョウブ」


 依頼者は首を振ると、どこか遠くの方を見つめた。




「友達ガ教エテクレタ。来週グライカナ、ココニ変異体ヲ処理スル人タチガ来テ、ミンナ駆除シテシマウンダッテ……」




 やはりそうだと思った。

 この辺りで変異体が大量発生して、かつ警察が見張りをしているとなれば、近々駆除しに来るだろうと。


「僕ハ他ノ僕ガ掘ッテクレタ穴カラ脱出スルカラ、ダイジョウブダヨ」


「しかし……知能がないとはいえ、自分の分身が駆除されるのは……」


「ウウン、全然平気」


 彼は、スマホをハンドバッグに入れた。




「増エスギタモノハ、イツカハ数ガ減ル。ダケド、ヒトツデモ残ッテイタラ、マタ増エテイク……増加ッテ、モトモト少ナイモノガ増エテイクコトデショ?」











  仕事を終えた我輩は、トンネルを通って大木の前まで戻ってきた。

 その後、タクシーの代わりにその辺を通っていた車をヒッチハイクし、予約していた街のレストランに向かった。






「ウソでしょ!? チーズケーキが売り切れですって!?」

「ちょ……落ち着いてよ……」

「申し訳ありません! ただいま、チーズケーキは材料不足でして……」


 別の席の女性が、酔っているような声でウエイターに怒鳴っていた。その女性に、友人と思わしき人物が抑えようとしている。




 我輩もチーズケーキは後で頼もうとしていたので、この知らせは不法だった。




 しかし、仕方ないだろう。増えていたものはいつか減るのだから。




 我輩は彼の言っていた言葉を思い出しながら、ラム肉のステーキを口に運んだ。











「どうしてタクシーのお客に振られたぐらいでそこまで機嫌を悪くするのよ……」


「あのお客、顔がすごいイケメンなのよ! なのに、もう予約している店があるとかいって、逃げるなんて……」






 ……はて、そのような客とは、いったい誰のことであろうか。

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