37話「Chase for Dream ~この世の微睡~」
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当時の人生。順風満帆、と言えばよかったのだろうか。
小学校は少年野球、中学校は野球部に所属し県大会でも良い記録を残した。高校になってからは野球ではなく勉学の方にも集中し、その後は警察学校へと。
刑事。巡査部長になってから、同僚の面々からはエリート街道まっしぐらだと褒められたものである。実際、彼はその仕事に誇りを持ち、数多くの殺人犯に強盗、麻薬の売人などを現場に赴き取り押さえてきた。
嫁もいた。三歳年下のキャリアウーマンだった。仕事の間柄、偶然知り合ったその人とはいつの間にか連絡を取り合うようになり、食事もするようになった。二年の交際を得て、婚約までこぎつけたものである。
多忙であるために式を挙げることはなかなかできず、食事は勿論会う機会も少なくはあった。だが、妻はなけなしの安月給で買った結婚指輪を喜んでくれたし、たまにしか帰ってこない仕事疲れの彼を労わってくれた。
……辛いこともあったし、大変な日々ではあった。
だけど満たされていた。誇りを持った仕事、そして愛する妻。安月給と休みが少ないという点を除けば、何不自由のない生活を続けていた。
異変が起きたのは、その数年後だ。
五光の誕生……日本人の大半に【L】と呼ばれる異能能力を身に秘めた異端者たちが現れたのは。
次第に世界は、【L】を持たない者には希望がない世界となった。
言うなれば、旧人類と新人類で隔離されるようになった。旧人類は新しい世界の革命では邪魔であると判断され、新人類はその力を奮うことを許され、次第に日本の政治関係や上下関係はひっくり返ることになった。
彼は……【L】を宿せなかった。
【L】を宿す条件としては、契約者を発見する事。契約者は愛する者であること。婚約者であるはずの彼はその条件を満たしており、新人類の味方入りをするはずだった。
“だが、妻は別の男と契約していた”。
“不倫だった”。
“なかなか相手にされない。その恋が冷めてしまうのも無理はなかった。”
“どこの馬の骨かもわからないホストと、彼女は結ばれ、子も孕んでいたようだ”。
妻は【L】を宿した新人類に選ばれると、次第にその欲望と権力に溺れていった。
未契約者。何の権力もない牧瀬には見向きをすることもなく、なけなしの金で買った婚約指輪も目の前で捨て去った。一方的に置かれた離婚届も今も記憶に新しい。
そこから狂っていった。
自暴自棄にこそならないよう意識を向けてはいたが、組織の上限関係の変動により、彼は次第に窓際ともいえる立ち位置にまで追いやられたのも覚えている。
最初こそ、恨んでいた。
欲望に駆られた人間達。その存在がどれだけ醜いと思ったことか。
こんな狂った時代を変えてしまいたい。かつての平穏な日々に戻したいと思い、事情も知らずに滅ぼされた“日本政府の中心ともいえた一族”の血筋と手を組んで、刑事としての立ち位置を守り続けた。
宮丸瑠果とは何もなかったわけじゃない。恋人という関係でこそないが。
それは、ハッキリいって苦肉の策であったのだ。
“乱暴の愛”だった。強引な手段。
愛してもいない男女同士で……夜を過ごした。。
【L】はその歪んだ関係こそも愛とみなし、牧瀬と彼女は契約者となり、この時代に生きるための権限をひとまず得ることは出来た。
だが……とにかく、辛かった。
宮丸瑠果も、その夜の表情は非常に冷たかったのは覚えている。牧瀬も同じだ。
これほど、欲に駆られない冷え切った興奮というのも地獄であると。互いに、そう思っただろう。
ここまでした。ここまでしてやった。
互いの目的を果たすため、必ずや天王を滅ぼす。世界を変える。宮丸瑠果とそう誓った。
……叛逆の最中、彼は娼婦館で彼女と再会した。かつての妻だった。
あの場に閉じ込められて、醜く命乞いをしていたという事は……契約者、つまりは愛人に捨てられたという事だろう。随分と身勝手な、欲に溺れた理不尽な理由だったのだろう。
だが、理不尽なその状況こそ、彼女に相応しい罪だと。
最初こそ、思った。
“実に情けない、様になっているな”と。
恨み節を心の奥底で思い浮かべていたと思う。
だけど同時に思ったのは……そんな妻へ対する悲壮感であったことも。
天王と出会った。
そこで知った……人間という生き物はどれだけ“弱い”のだろう、と。
まるでこの世界を管理する神に会ったような気分だった。
逆らえば消される。この世にいた人間のほとんどが、あの城を眺めながらそう思って生きているのだろう。
……勝てるのか。
あんな存在に勝てるのか。
全ての人間が。どれだけ力を持った人間であろうと全てを諦めた。
それほどの存在。たかが悪足掻きで【L】を身に着けた気弱な生き物が、勝てるわけがない。
「……」
ベンチに座っていると、目の前に虚ろな光景が広がっている。
そこは【L】という異分子に駆られながらも、生き残った人間達。選ばれし人間のみが蔓延る世界……だが、それは過去見続けてきた世界と何ら変わらない。
楽、になれるかもしれない。
普通の人間社会。この波にのまれてしまえば、もう深く考えることも。こんな苦しい思いをしなくてもいいのかもしれない。
全て終わらせてしまった方が、平和なのかもしれない。
『それでも、』
楽に、なれる。
『それでも、貴方は、』
諦めてしまいたい。
そう、思っていた矢先だった。
『でも、貴方はまだ戦おうとしている』
「……!」
人ごみの中、姿を現す。
『そう、ですよね?』
花園の紋章が彩られた和服の制服姿。
かつて共に戦った眼鏡の青年が猫を二匹連れて。
『となり、いいですか?』
「仄村……!」
静かに、仄村は彼の横に座る。
飼い猫である二匹も、ベンチの周りをグルグルと回っている。暇なのか知らないが、二人にちょっかいをかけているようだった。
『貴方は納得していない……諦めかけているけど、その奥底でまだ、その意識は消えていない。そうですよね』
「……どうすればいい」
牧瀬は頭を抱えるばかりだ。
「あんなのに……勝てるのかッ……! お前だって、俺と同じ気持ちを味わって……いや、きっと俺以上の苦しみを味わって、あっち側に……ッ!!」
屈してしまった。いくら、敵意を持っていたとしても裏切ってしまった。
その苦しみから逃れるために。未来を掴むにはそれしかないと悟ってしまったから、裏切ったのだろうと問いかける。
『……そうした方が幸せだと思いました』
否定はしない。
牧瀬と同じ気持ちだった。自白しながらも、仄村は続ける。
『でも、違った』
微笑みかけるような話し方だった。だが、そこにはかつての叛逆者の青年の顔がある。
『僕は……今でも苦しいです。そして悔しいんです……こんなに、後悔しながら死んでしまった。この世に未練を残したまま、終わってしまった』
「苦しい、か」
『ええ、そうです……貴方も言いましたね。苦しい、と』
神に未来を約束された。
だが、その契約は、その愛は……間違っても、心地よいものではなかった。
不愉快でしかなかった。不気味でしかなかった。約束できるはずないと思った。
ただ、逆らう勇気だけがなかった。
『あの場で屈せず、皆と戦い続けてたらどうなってたんだろうって、今でも思って……』
ベンチの隣を歩き回る猫二匹。
片方は脚を止めると頭を掻きまわし、もう一匹は仄村の膝の上に座り込み、撫でてほしいとねだってくる。
『……いえ、止めましょう。姫様の言いつけを破って、あの城の近くに足を踏み入れてしまった。そうすれば、二度と勝ち目はなくなるって言ってたのに……あの聖域に足を踏み入れてしまった地点で、僕の人生は終わってたんです』
助かる未来はなかった。
裏切ろうが裏切らないだろうが……どうであれ、姫たちの迷惑になることは叶わなかった。結局は身分の脆さだったと割り切っていた。
『牧瀬さん』
仄村は猫二匹を連れて立ち上がる。
『貴方は、僕のようになってほしくはない』
別れの挨拶を告げることはない。
彼らはこう思っているのかもしれない……その資格はないのだと。
人ごみの中へ。
敗者の群れの中へと、その姿は再び消えていく。
『貴方だけじゃない。瑠果さん、殺し屋さん、姫様。そして……皆にも』
「仄村ッ……!」
手を伸ばす。
だが、もう彼の姿は猫と共に、人ごみの中に飲み込まれていた。
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