第11話 若葉の逢瀬

 白雷が木々を薙ぎ倒し、森の奥へと消えて行く。直後訪れた静寂の中で、ヒューズは力無く身体を投げ出した。

 目の前には仰向けになって動かないマリーの姿がある。全身傷だらけで、服もあちこちが破れ落ち、血を被ったような様子だった。その傍へと這いずり、首筋にそっと手を当てる。脈は感じない。


「治癒を、早く……フェ、リシアの、……」


「動け」と心の中で繰り返し、無理に起き上がろうとするが、最早それは叶わなかった。電流で神経を操作しようにも、そもそも異能を底の底まで使い果たしてしまっている。そんな状態で意識を保てるはずもなく——


 ヒューズは、マリーの隣で気絶した。


 * * *


 一方、森の中で焦燥の色を浮かべる者が一人。レインが辺りを注意深く見回しながら疾走していた。追っていたはずのルークの姿はない。レインとしては情けない話だが、彼に振り切られたのだ。

 気弱な風体からは想像も付かない速度で枝葉を易々と掻い潜るルークに面食らっている間に、あっという間に引き離されてしまった。


 森の地形も問題だ。変化に乏しい景色と入り組んだ構造、そして時折出る妙な濃霧。その全てに方向感覚を狂わされるのだ。


(嫌な予感がする。さっきから聞こえる音はヒューズくんの雷か? 早く見つけて戻らないと)


 不安は募るばかりだが、このまま無闇に走り回っても埒があかない。間近で見たルークのを信じ、誰かとの合流を目指す線もある。しかし、後輩を半狂乱のまま放置するのは危険だ。判断に迷う彼女だったが、直後、木々の間から見知った影が飛び出した。


「フレッドくん!?」

「あ?! 何してんだお前!」


 ぶつかりそうになりながらも何とか立ち止まると、レインは「こっちのセリフだよ」と返して表情を和らげた。図らずも仲間と合流できたことは良い風向きだ。——とはいえ、フレッドが一人で行動しているということは、作戦に歪みが生じていることに他ならない。


 二人で一旦気を落ち着かせ、情報共有に入る。フレッドの口からは、調査が一区切り付いた後のことが語られた。


「あの気色悪ィ木の実がどうとかって、三人で戻ることになったんだけどよ。戻ってる途中で狼野郎が消えやがって、そのすぐ後に……」

「カトレア先生ともはぐれた、か。……森の特性と言っていいだろうね。実を言うと、こっちも大分マズイことになってるんだ」


 果実の異変とルークの遁走について手短に伝えると、フレッドは露骨に顔をしかめた。明らかに悪い状況だ。「やることが増えまくってんじゃねえか」と零した言葉に、レインも少し俯いた。

 だが、こんな状況だからこそ冷静さを欠いてはならない。一層気を引き締め、レインは毅然と次の案を出した。


「道が不明瞭な以上、とにかく歩き回るしかない。ルークくん、ヒューズくん、先生、人狼……見つけた順に解決していくのが一番かな」

「あー、そういう難しい話はお前に任せる」

「任せて。それじゃあ行こ——」


 刹那。空を割るかという轟音が耳を衝いた。

 それが雷鳴だと気付く間もなく、地表をめくりながら黒い物体が飛来する。数個にちぎれた"不定形の塊"は、大木の幹に勢い良く激突すると、それを折り倒すのと引き換えにようやく停止した。


「な……」


 間違いなく、黒い果実に類するもの。それは痙攣するように蠢くと、分かれた肉片を繋ぎ合わせて人の形をとった。


「おい」

「分かってる」


 空気が張り詰める。息苦しい。例えるなら、大蛇の前に丸裸で放り出されたような、捕食者に睥睨へいげいされるような、原始的な恐怖が眼前にある。レインとフレッド、その両極の熱量が、黒い怪物への認識を共通付けていた。


「ん、ん……ば、らばら……」


 怪物が起き上がる。その紅い眼に補足されると同時に、二人は瞬間的に氷剣と火炎を携えた。


 怪物はぴたりと止まり、一点を見つめている。


「——あ」


 レインの"アドミールの剣"。それを見ていた。


「こおりの。つめたい、


 そう呟くと、怪物は触手を薄く広げ、地を蹴って飛び上がった。呆気に取られる二人をよそに離脱した怪物は、そのまま森の霧に呑まれて見えなくなった。


 レインとフレッドは安堵と困惑の入り混じった息を深く吐きながら、木々が倒されてできた"道"の方向へと目を向けるのだった。


 * * *


「はっ、はあっ、はあっ……」


 その直後。枝の間を飛び抜けながら闇雲に森を走るルークは、ようやっと落ち着きを取り戻しつつあった。速度を抑え、徐々に歩行へと動きを戻していく。鼓動が落ち着き頭が冷えると、段々と状況を考えられるものだ。そうすると、途端に血の気が引いていくようだった。


「……ここ、どこだろう」


 とにかくあの場を離れなければ、という一心で進みすぎた結果、完全に迷ってしまった。見学としての同行とはいえ、先輩に重大な迷惑を掛けてしまう。怒られるだろうか、その後どうなっただろうか、先輩は言った通り逃げてくれただろうか……様々な思いが脳内を駆け巡る。

 しかし、身の振り方の後悔はあれど、果実から逃げ出したのは正しい判断だとルークは確信していた。直感だが、あれは間違いなく「世界を変え得るなにか」だ。留まっていれば十中八九死んでしまう。


 果実を前にした感覚を思い出して怖気立つのも束の間、ルークは周囲の異変を即座に感じ取った。妙な音がする。空を切るような風の音が、どこかから聞こえて来る。


「——そんな」


 ルークは青褪めた。音が大きくなるにつれて、あの時の「死の匂い」が辺りに漂い始めているのだ。


 死の匂いとは、あくまでルーク個人の比喩表現だ。五感が通常より数倍鋭い彼は、常人には計り知れないものを本人も深く理解しないまま知覚できる。「膨大な負のエネルギーと異常なまでの血と屍肉の匂いを感じ取り、自分たちが殺される未来を想像してしまった」といったところだろうか。


(嘘だ……近付いてくる! ど、どうすれば!?)


 匂いはますます強まっていく。逃げ出そうにも、向かってくる方向が判らない限り逆効果になりかねない。極限の恐怖の中で、ルークはやむなく腹を括っていた。


「……少し、だけ」


「ヴヴヴ」と、今までのひ弱な声から一転した野太い唸り声を上げ、ゆっくりと前傾姿勢を取る。そうして彼の異能を解放しようとした矢先に、感じていた死の匂いが跡形も無く霧散した。

 困惑に目を丸くする。直後、その場に肌色の物体が落下した。


「は……え、ええ!?」


 ルークが頓狂な声を上げるのも無理はない。

 空から落ちてきたそれは、一糸纏わぬ姿の少女だった。


(敵意もない、匂いも一切しない! い、一般人? 空から? どういう出現の仕方!?)


 指の開いた手で眼を覆いながら狼狽うろたえて何もできずにいると、少女は独り言を呟きながら体を起こし、透き通った紅色の瞳をルークに向けた。黒に赤紫が差したような髪の毛が白い肌に掛かり、その無造作がどこか甘美な魅力を放っていた。


 両者はしばらく硬直していたが、少女が小さなくしゃみをしたのを見てルークは意を決して彼女に歩み寄り、脱いだ上着をそっと羽織らせた。


「おー、あったかい。ありがとう」


 そう言って屈託なく笑う少女からは、まるで邪気を感じない。見た限り自分より三、四歳幼いかという容姿で言葉の辿々しさとは齟齬そごがあったが、ルークはそれを不穏とは感じなかった。

 あの匂いは気のせいだったのだろうかと疑念を抱きつつも、ルークは少女の隣に屈み込んで穏やかに問いかけた。


「き、君は? こんなところで何をしてるの?」

「なにを? ……なーんにも。なにかしなくちゃいけない気がするけど、あたしは知らないの。だからなーんにもしてないの」


 ふわふわとした語り口で紡がれる言葉は、最初こそ幼稚な発音だったものの徐々に安定し始めている。内容は理解できなかったが、少女が危険に晒される——魔族に襲われていただとか、親とはぐれただとか、そういった状況にないことは読み取れた。


「僕はルーク。えっと……お名前は?」

「ナマエ。あるよ、たぶん」


 少女は小さく唸り声を上げながら逡巡すると、パッと笑顔を見せ、自信げに、一言一言確かめるようにして言った。


「のー……バ。のゔぁ。あたしは"ノヴァ"」


 少女の瞳はきらきらと、希望に満たされていた。

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