第5話 琥珀のひと時


 ほんの一時間ほど前の厳格さを和らげ、美麗な女性らしさを含んで微笑むカトレアを前に、ヒューズは一瞬何事かと目を見開いた。凛とした女性はレインの影響もあって好感も高かったのだが、こうした柔らかさを見せられると弱い。戦いの中では認識が鈍かったが、ヒューズもれっきとした思春期の少年なのだ。気取られない程度に赤くなりながら、そっと取り直してカトレアに向き合った。


「ど、どうしたんですか? カトレア先生」

「休憩中すまない。せっかくの機会だ、生徒とは一人一人親睦を深めなければならないと思ってな」


 もちろんと快く承諾すると、カトレアは左手に持っていたカップを置いて席に着いた。こんな小さな一幕にも、片腕が使えない不便さが垣間見える。一つ一つ処理される動作の中で、右袖がゆらゆらと揺れるのがどうも痛々しい。そんなことを考えていると、ちょうど一呼吸置いたタイミングで「それと」と話が切り出された。


「先生は不要だ。カトレアさんだとか、ミスアンバーだとか……その辺りでいい」

「えっ、どうしてですか?」

「君たちにとっての"先生"はジンさんだけだろう。その席を無理やり奪うつもりはないさ」


 笑みを携えながらも淡々と紡がれる言葉からは、特に後ろ暗い感情は読み取れない。むしろジンへの尊敬の念が前面に押し出されていた。きっとカトレアも彼に大きな影響を受けた人物の一人なのだろう。


 しかし、ヒューズはその言葉に微かな違和感を感じていた。言葉にするにはあまりにも生意気な違和感だ。今は、そっと胸に留めておくことにした。


「……わかりました。カトレアさん」

「うん。さて、なにを話そうか」


「うーむ」とそれらしく唸りながら、カトレアがちらちらと視線を送ってくる。それに呼応する……いや、半ば逃げるように唸り声を上げると、うんうんという擬音だけが響く異様な実の無さが席に広がった。無言よりよほどたちが悪い。


「ええと……」

「…………ふむ、生徒との会話とは存外難しいな。教職の難儀なところだ。話題はないかな?」

「わ、話題? そうだなあ……好きな食べ物とかですかね?」


「君、よく口下手だと言われないか?」と怪訝な顔で漏らすカトレアに「こっちのセリフだ」と心で叫ぶ。ともあれ話題は話題だ。カトレアは二秒ほど考えて、楽しげに人差し指を立てた。


「私はトマトが好きなんだ。生トマト。チーズと食べると尚更美味しくてね。料理名は忘れたが」

「カプレーゼですか?」

「そう、カプレーゼ。あれは良いものだよ」


 ノルノンド旅行で洒落た料理をいくつもご馳走になったが、確かにカプレーゼは良いものだ。そう思い返しながら頷いていると、ふと話がここで途切れていることに気付いた。


『フレッドは話題の広げ方が下手なんじゃないか? フェリシア相手に緊張するのは分かるけど』

『そうだね、どんどん連想していかなくちゃ! そこから共通の趣味を探ってみたり!』

『好き勝手言うな! ハードルが高えんだよ!』


 そんなやり取りを思い出し、ヒューズは思わず肩を縮めた。会って一日の教師相手に緊張しているのかもしれないが、こうまで会話が弾まないと少しへこんでしまう。目の前のカトレアも、腕を組んで口を開くそぶりさえ見せない。


 なんとかしようと意気込んだその時、場の雰囲気がほんの少し重くなった気がした。


「……うん、すまない。恥ずかしながら不器用なんだ。仲良くなりたいのは本当だが、こんな話がしたいわけじゃない」


 きまりの悪そうに視線を下げるカトレアだったが、発している空気は徐々に硬化している。ようやく向けられた瞳の深淵に、ヒューズは無意識のうちに身を硬くしていた。


「ヒューズ。君は、この一年で何を学んだ?」


 一年。常人のそれとは遥かに短い時間だった。

 燃えていた復讐心に、仲間との出逢い、衝突、和解。強敵に打ちのめされ、引き上げられ、妹と数年ぶりに再開した。宿敵を見つけ、学園が崩壊し、師を失った。そして、恩人との決戦を制した。


『これはお前らの勝利だ』

『お前は栄光の道を征け』


 ヒューズは、その問いに一言だけ返した。


「生き方を学びました」


 それを聞いたカトレアは、静かに笑った。


「……そうか。それは何より」


 表情は穏やかだが、どこか物憂げに見える。彼女が何を考えているのかは何となく分かっていた。前述の通り、「生意気」だからあえて口には出さないのだ。カトレア自身もそれは察しているだろう。


「実はさっき、マリーにも同じ質問をしてね。彼女は『仲間の大切さ』と答えた。君たちは、私が思うよりずっと大きいんだな」


 ヒューズは「マリーらしい」と頷いた。フレッドとレインが何を言うかは分からないが、想像には難くない。恐らく全員がばらばらに表現し、全員が「らしい」と笑うのだ。


 不思議な雰囲気の中でカトレアは二、三度逡巡するように体を揺らすと、唐突に話題を変えた。


「上回生と話したことはあるか?」

「? ロシェ先輩となら、何度も」

「あの子はもう卒業生だろう。今の三年生。君たちの一つ上だよ」

「ああ……会ったこともないです」


 一つ上の学年とは、一年間を通して何の接点も無かった。会うどころか名前や噂すら耳にしたことがない。レインなら何か知っているのだろうが、今更聞く気にもなれなかった。思えば妙な話だ。

「無理もないか」と息を吐くと、カトレアはカップの紅茶をゆっくりと飲み干し、席を立ちながらぽつりと、しかし聞こえるように呟いた。


「一年生然り、三年生然り。君たち"第三世代"には、まっすぐに育ってほしい」

「第三世代?」

「ああ、知らないのか。何かと複雑な話でね。また今度話そう」


 そう言って左手をひらひらと払い、大人らしい余裕のある笑みを浮かべて足を進める。それを伏し目がちに見つめていたヒューズは、距離が少し開いたころで続いて席を立ち、その場で彼女を呼び止めた。


「カトレアさん!」


 生意気な一言。つまるところ、内心を察したようなお節介が、吐き出されたものに詰まっていた。


「余計なお世話かも知れませんけど——いつか。先生と呼ばれたいって、そう思う日が来ると思います」


 その言葉と堂々とした態度に面食らったように一瞬でも固まると、カトレアはさらりと目を細め、再び足を進めながら言った。


「ふふ……ありがとう。楽しみにしている」


 揺れる右の袖が、やけに感傷的だった。



 今のところ、あくまで推測に過ぎない話だが。

 カトレア・アンバーは"背負わされた"人間だ。


 最強と謳われたジンの教師としての地位を継ぎ、その威光を一身に浴びてきた学年を上層部からのより強い圧力を受けながら指導しなければならない。生徒がより力を発揮するたびに、ジンの存在を背後に感じる。生徒の眼を見つめるだけで、その奥にある影を直視する。決してそんなことをするつもりはないが、周囲からの悪辣な『比較』にも耐えなければならないのだろう。

 もしも自分が彼女の立場ならと想像して、ヒューズは少し俯いた。


「もし俺なら、とっくに潰されてる」


 教師と生徒の庇護関係が、どこまで在るべきなのかは分からない。ただ、組織がジンにしてきたように、強さに甘え、責任を押し付けることだけはしないと心に誓っていた。


 もう誰も失うわけにはいかないのだ。



 * * *


 ——そして、任務当日。

ノルノンドの街には、初々しい後輩の姿もあった。

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