第76話 モブ令嬢と旦那様と仇敵と(前)

 演台を降りた私は、激しい憎悪を含んだ、グサグサと突き刺さるような視線に追いかけられたまま、旦那様の元へと急ぎます。

 ……旦那様たちのおられるテーブルはこのように遠かったでしょうか? まったく足が進んでいる気がいたしません。

 あそこには旦那様やアンドゥーラ先生、ブラダナ様という、私にとってこの上もなく頼もしい方々がおられます。

 演台の上ではレガリア様が陛下よりお言葉を賜っておられるようですが、今の私にはそちらに視線を送る余裕さえもありません。

 喉が渇き、息が浅くなってしまっております。


「陛下のお言葉も受けずに演台から降りるなど、なんと礼儀を知らぬ娘だ……」


「演奏は、少しは見るところもございましたが――このような礼法も仕込まれていないなんて、古の名家も落ちぶれたものですわね」


「爵位を維持するために、あのルブレンに娘を売りつけたのだ、言わずもがなであろう……」


「……ほら、見てください。バレンシオ伯爵が物凄い形相であの娘を睨んでおりますわ」


「あああの方も、排除したはずの政敵の家が、またこのように復興の兆しを見せているのが我慢ならんのだろう。執念深いお方だからな」


 そのような言葉が、僅かに耳を打ちます。

 私は、まるで鉛のように重くなってしまった身体を引きずるようにして歩みを進めますが、庭園の通路に敷き詰めたレンガに足を取られてしまいました。

 そのまま前のめりに倒れてしまいそうになりましたら、ぽふりっ、と誰かに身体を支えられました。


「フローラ――大丈夫かい」


「……旦那様?」


「ああ……演台から降りてきたと思ったら、足取りはおかしいし、みるみる顔が青くなってきたから何事かと思ったよ」


「……バレンシオ伯爵が……、あの方の恐ろしい視線にあてられてしまいました」


「そういう事か……最後の辺り、君が何かに気を取られていたように見えたのは」


 私は旦那様に支えられるようにしてテーブルへと足を進めます。


「バレンシオ伯爵は?」


「あちらに……あっ、どちらかへ移動なされてしまったようです……」


 先ほどまで彼が、私を睨み付けておられた場所は、すでに無人となっておりました。


「……ということは、ローデリヒ殿がいたテーブルかな。――ああ、そのようだ。あれだけ似ていれば間違いようがない」


 私は会場の庭園を全て見回していたわけではございませんでしたのでローデリヒ様のおられるテーブルは確認しておりませんでした。

 旦那様の視線の方向へと目を向けますと、バレンシオ伯爵は同じテーブルの方々と会話なさっておられるようでした。

 バレンシオ伯爵の背後には厚いベールを深く被った侍女らしき女性が付き添っておられます。お年を召した方が傍えパートナーとして、使用人の女性を伴うことはございますが、なかなかに珍しいことですので目にとまりました。

 バレンシオ伯爵の視線はこちらには向いておりません。しかし私には、彼の意識がこちらに強く向けられていることを感じます。


「おおフローラ、大丈夫か? バレンシオめがやって来おったので教えに来たのだが、グラードルがお主のところへ駆け出していったので心配したのだぞ」


 私たちがテーブルに戻りますと、お義父ドートル様が私たちのテーブルにやってきておりました。


「ありがとうございますお義父様。少々慣れない視線にあてられてしまいました。このように沢山の方の前で演奏したのは初めてなものでしたので」


 周りにはアンドゥーラ先生やサレア様たちがおられますので、本当のことを話すのはかばかられます。


「ふむ、そうか。ところで、いよいよ我が家が献上したベルーグラスが陛下と王妃陛下に使って頂ける。カサンドラの実家、ドライン家の尽力のおかげで、他国の商会として唯一我がヴェルザー商会が取引を認められた。今日お使い頂ければ、オルトラント貴族がこぞって求めてくるだろう。これでまた大きな商売ができるというものだ」


 そのように仰って、ガハハと笑います。

 王家の茶会恒例となっている演奏会終わり、この後、陛下の乾杯の号令によって、宴は招かれた客たちの懇談の時間へと移ります。

 演台の上にグラスを乗せたワゴンが運び込まれました。侍女が飲み物を注いでゆきます。

 アンドリウス陛下を始めとしてノーラ王妃陛下、第一王子トールズ様、第三王子クラウス様。それにリュートさん、マリーズが演台に立ち並び、飲み物を注いだグラスが手渡されました。


 ルブレン家で献上した対のベルーグラスを手にしたのはもちろん、アンドリウス陛下とノーラ王妃陛下です。

 しかし……、ライオット様は、この茶会においてバレンシオ伯爵が何かを起こすと確信しておられるようですが、いったいどのようなことをなさるというのでしょうか?

 ただ言えることは、それが起これば、我が家――エヴィデンシア家が致命的な影響を受けるだろうということです。


「……いったい、何を?」


 旦那様がそう呟きます。彼も、私と同じ事を考えておられるのでしょう。バレンシオ伯爵のおられるテーブルを凝視しておられます。

 私もその視線を追って、そちらに目を向けました。バレンシオ伯爵がこちらを睨んでいたら……と、少し恐ろしく思いましたが、幸いなことに彼の視線は演台の上に向いておりました。


 演台の上では、アンドリウス陛下の口上が始まっております。


 …………?

 私は、違和感を覚えます。

 あれは……バレンシオ伯爵が私を射殺さんばかりに見つめていたのと同じ目付きです。直接あの視線を受けた私には分かりました。

 しかしその視線は演台の上……陛下へと向いております。……そのようにして演台の上を睨み付けていたのはローデリヒ様でした。

 そう理解したとき、私の頭の中に、これまでに我が家が受けた数々の事柄。そして私たちが調べ、聞き及んだバレンシオ伯爵家の過去の話がぐるぐると巡ります。

 彼らは何を考えて? バレンシオ伯爵とローデリヒ様、あの二人の目的は違うのでは? でも、バレンシオ伯爵家として目的が交錯する点があるのでは? それがなれば双方が利を得る……。……彼らは、捜査局が網を広げていることを知らない……。ルブレン家からの献上品――ベルーグラス。ローデリヒ様は何故あの場所に? …………?! 頭の中で一つの絵が浮かびました。


「旦那様! いけません!! 陛下とノーラ様を止めなければ!!」

 

 私はそう叫んで、演台へと向けて駆け出しました。

 旦那様が驚いて私の後を追ってまいります。

 私たちの行動に、同じテーブルにおられた方々が驚き、固まっておられるようでした。

 先ほどまで鉛のようだった私の身体は、頭に浮かんだあまりに恐ろしい可能性を前に覚醒して、演台の下へとまたたく間に駆け寄りました。


「アンドリウス陛下! お待ちください!!」


 私がそう叫びますと、演台上のアンドリウス陛下が胡乱げな視線を向けます。ノーラ様やマリーズたちは驚きに目を見開きました。

 茶会に招かれた客たちも何事かと私に視線を向けます。

 庭園の中がザワザワとした喧噪に包まれます。


「陛下の口上を妨げるなど、なんと無礼な!」


「白竜の愛し子と聖女を養っておるからと調子に乗って何を考えておるのか!」


「これでエヴィデンシアも本当に終わりだな……」


 などという声が、上がります。

 ですが今の私にはそのような言葉に反応している余裕はございませんでした。

 ……この先の言葉を口にしたら、おそらく後戻りできません。もしも過ちであったら我が家は罰を受けることとなるでしょう。知らぬ間に身体が震えておりました。少しでも気が緩めばその場に座り込んでしまいそうです。

 ……ですが私は、その恐ろしい可能性を無視することができません。

 私の見いだした答えが正解であったならば。……陛下とノーラ様の命が失われることとなります。そしてその罪を我が家になすりつける算段がバレンシオ伯爵たちにはあるのでしょうから。


 懸命に言葉を続ける気力を振り絞っていた私に、旦那様が追いついてきました。

 彼は、震えている私の手を握ります。私は彼と視線を交わしました。その彼の視線の向こう、黒灰の瞳には、私が導き出したのと同じ答えを得た、理解の色が窺えました。

 旦那様が、僅かに優しい笑みを浮かべて私に頷きます。それだけで私の心の中に渦巻いていた恐れが凪いでゆきます。

 旦那様と私は一つ静かに呼吸をして……口を開きました。


「「……そのグラスには――毒が盛られている可能性がございます!!」」


 そう言って旦那様と私は、演台へと上ります。


 私たちが陛下へと近付きますと、「無礼であろう! エヴィデンシア夫妻!! いきなり何を言い出すのだ! 王家の主催する茶会においてどこのバカがそのようなことをするというのだ!」と、クラウス様が私たちの前へと飛び出してこられました。

 しかし、アンドリウス陛下は手を横に広げて、飛び出してこられたクラウス様を制します。


「クラウス! 下がっておれ」


 そう言った陛下は、どこか面白い余興でも目にしているようなご様子で、私たちを見据えました。


「しかし父上!」


「――下がれ、と言っておる」


 陛下がキツくそう仰るとクラウス様は渋々と元の場所へと戻ります。

 それを確認すると、陛下は私たちの前へとやってまいりました。


「エヴィデンシア伯爵夫妻。このようなことをして、もし間違いであったらただではすまんぞ」


 そう言って、手にしたベルーグラスを私たちに向けて差し出します。


「覚悟を持って証明して見せよ……」


 その言葉を発した陛下の表情は、相変わらず余興を楽しんでいるように見えました。


「確かに……お預かりいたします」


 そのように言って、旦那様は隠しから手巾を取り出しますと、陛下の差し出したベルーグラスを直接触れないよう――手巾で優しく包むようにして受け取りました。


「陛下、恐れながら噴水の中に放たれている魚を使うことをお許しください」


「うむ、お主たちの言うことが誠であれば一大事だ。人の命には代えられまい。誰か水槽を持て!」


 陛下の下知を受けた使用人たちによって、素早く水槽が演台の上に用意されます。

 その中に、噴水の中に放たれていた鮮やかな色彩の魚が一匹入れられました。

 それは、白色を主体とし、赤や黒、さらには金色のように見える、斑の模様をしたとても美しい魚です。おそらく他国から取り寄せられたものでしょう。

 それを目にした旦那様が、どこか腰の引けたご様子になります。


 ボソリと、「『マジ、これ錦鯉じゃない? もしかしてチョー高い奴じゃない!?』」呟き、目を見開きました。


 旦那様はゴクリと唾を飲み込んだ後、意を決したように、ベルーグラスの中身をその水槽に入れます。

 変化はすぐに起こりました。

 水槽の中に液体が入った途端、魚は激しく暴れ出しました。そしてあっという間に動かなくなると、腹を上に向けて浮かび上がります。

 それを目の当たりにしたアンドリウス陛下も、流石に息を呑みます。

 招待客たちの中から甲高い悲鳴が上がりました。

 数名の令嬢やご婦人がクタリと意識を手放し、傍えパートナーの殿方に身体を支えられております。

 庭園内には先ほどまでと比較にならない喧噪が広がりました。


「これは……誠であったようだな。……しかし、このようなことが起こると何故予想できた?」


 陛下のお言葉はもっともです。誰が王家の茶会で王族に毒を盛るなど考えるものでしょう。

 私自身、先ほどバレンシオ伯爵から、あの刺し殺されんばかりの視線を受けていなかったなら……そして、茶会が始まる前にローデリヒ様と顔を合わせていなかったなら、そのような答えを導き出す事はとてもできませんでした。


「陛下、実は……」


 旦那様が、そう陛下に口を開こうといたしましたら、庭園の奥から甲高い声が響きます。


「アンドリウス陛下! それはエヴィデンシア伯爵家の茶番にございます!! エヴィデンシア家めは己が失態で没落したものを、尽くした王家に見捨てられたと逆恨みしておったのです。彼奴めらはこの度の機会を利用して王家に復讐を企んだのでしょう。きっと、毒を盛ったものの最後になって怖じ気づき、このような芝居を打って、誰かに罪をなすり付けようとしておるのです。 儂を陥れようとしたたときと同じようなものです! まったく――孫の代になってもその性根は変わらぬか、このエヴィデンシアめ! 陛下、騙されてはなりませんぞ!!」


 そのように声を上げたのはバレンシオ伯爵でございました。

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