第021号室 闘技場 港

 日差しを乱反射し、狭く正方形に抜かれた井戸の底にいるような印象を与える鉄板の壁、錆と魚の腐った臭いの混じる空気で満たされた空間、意識を失っていたシスターは、何か大きな鉄の塊がぶつかり合うような、轟音と衝撃に打たれ目を覚ました。


「ふぅ………」


 血液の代わりに溶けた鉛で満たされたように重い体を起こし、酷い頭痛にうなされベットリと黒ずんだ血に染まった頭巾ウィンプルを押さえる。


 座り込みぼんやりと空を眺めるシスター、意識して呼吸をおこない、手足の指を動かし感覚を確かめ脳へのダメージが如何程いかほどか探る。


 また巨大な金属同士の衝突音が鳴り響き囲いの中を反響する。壁に耳を押し当て外の様子を窺えば金属の擦れ合う音、獣の震慄わななき、風切り音、岩礁を打つ波の音が微かに聴こえて来た。


「何かしら………?」


 先程までとは違う肉の弾けるような破裂音と同時に鋭い風切り音が響き、頭上の空間を何かが横切る。見覚えのある姿とありえない挙動を見て、頭痛が酷くなる。脳みそをぐわんぐわんにかき混ぜて視覚情報を咀嚼そしゃくし、今、飛んで行ったのはジャングルの王者、地上最大の生物、ゾウさんだったと認識した頭を横に振り、脳が深刻なダメージを受けたに違いない、むしろそうであって欲しいと眉間を抑えた。


「耳が大きかったわ、あれはアフリカゾウ………なぜ?………いや、そんなことはどうでもいいわね」


 兎にも角にも外に出ようと考え、波打つ鉄壁の継ぎ目に爪先を捻じ込み、指を引っ掛け登り始める。スポーツクライミングの上級者コースと比べれば、等間隔に窪みの刻まれた壁は、シスターにとって梯子はしごを登るのと変わり無かった。


 難なく登り切りひょっこり頭を覗かせ外の様子を窺う。山のように瓦解し積み重なったマンションを押し退け鎮座する巨大な団地ダムの工業港には、水場に面した広大な荷捌き場の一画を区切るように、貨物コンテナが楕円の形に積み上げられ、闘技場を思わせる様相を呈していた。


 何者かの手によって造られた闘技場には、貨物コンテナがドミノのように垂直に立てられ等間隔で並び、錆に覆われ崩れかけたクレーンが持ち上げているコンテナには、名状しがたい不定形の触手溜りが周囲を見下ろすように張り付いていた。


 アフリカゾウが飛んで行った方を見れば、倒れたコンテナから這い出すように現れた狼の異形が、別のコンテナから飛び上がった首の無い八脚の麒麟模様の異形に踏み潰されて事切れる。

 その麒麟は牙が折れ削り落とされた頭部の挫滅創ざめつそうから血を流すアフリカゾウの振るった鼻先を受け、骨と内臓の破裂する鈍く、くぐもった音を立てて沈黙。

 背面から飛び掛かった、かろうじて人の形を保つケロイドと肉腫に覆われた肉塊は、鼻に巻かれるとあえなく投げ飛ばされ、質の悪いモルタルの上を転がり受け身を取ったが、その先にいた大蜘蛛の間合いを犯し、居合い抜きされた段平だんびらの大顎を受け爆散した。


 コンテナが倒れる度、団地の居住区画では滅多に遭遇しない大型の異形が現れる。状況を理解できず恐怖と混乱の坩堝に囚われた団地の住人達は、目と目が合えば、目の無いものは肩と肩がぶつかり合えば、それも持たない者さえ殺気に当てられ、手近な相手と殺し合いを始めた。


 強烈な死と悪意の腐臭を嗅ぎ付け、死体に群がる蠅、蛆の如くデスマニア妖精が現れると、積み上げられたコンテナを客席に、所狭しと群れ成し蟲毒の贄が織り成す狂瀾の宴に舌鼓、異形の首が落ちるたび、その心臓が止まるたび、耳障りな歓声を上げ死闘を盛り上げる。


「ひどい………わね………」


 今、しばらくはコンテナに隠れていた方が安全だろうと考えシスターが壁を降りようとした時、百の猛獣が同時に雄叫びを上げたかのような咆哮が響き渡り、シスターの全身を硬直させる。金縛りを受けたように動かない首を回さず、瞳のみを動かし咆哮の上がった場を見て、この後の事を考え血の気が引ける。


 貨物コンテナを内側から引き裂き、弾き飛ばしながら現れた手負いの西洋型ドラゴンは、皮膜の破られた翼で無理やり飛び上がり、態勢を崩すとシスターのコンテナへ錐揉み打って突っ込んだ。

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