第37話 重大発表
いつものそらであれば、ためらいなくドアを開くところであったが、今日に限っては中々ドアノブへと手が伸びない。
職員室に入る前のような、特にやましいことがあるわけでもないのに、妙に緊張してしまうような感覚に、そらは一歩を踏み出せずにいた。
その原因は他でもなく、先日あったマネージャー
アイドルとして歌一本に絞ってみてはどうかという高木の提案に対し、そらが反論する形で意見をしたものの、その回答がいまだに得られずにいる――その事実が、そらが抱く不安をより増長させていたのだ。
暗雲が主張を強めるそらの心中に対し、彼女を取り囲む世界はひどく穏やかで、まるで鏡の世界に迷い込んでしまったかのように優美で、光にあふれていた。
木漏れ日が揺れ、陽光を宿した空気がそらの髪を
心地よくも、妙にくすぐったい首元の感覚。
そこから逃げるように、そらは一拍だけ間を置いて、ドアノブをひねった。
ガチャリと音を立ててドアが開くと、そこには事務所の見慣れた光景と、久々に目にする社長の顔があった。
「おっ、時間ぴったりだね」
「あっ、おはようございます」
突然の社長の登場に、そらは反射的に頭を下げ、あいさつをする。
それに対して、社長は朗らかな表情のまま、そらを中へと
「おはよう、そらちゃん。ささ、ずっと立ってるのも大変だろうし、中に入って」
「はい、失礼します」
頭を上げると、そらは言われるがままに、応接スペースのソファへと腰を下ろす。
革張りの触感と沈み込む感覚を味わいつつも、そらは背筋を伸ばし、周囲の様子をうかがった。
初めてやってきたわけでもないのに、部屋を見回してしまうのは、社長を前にして若干緊張をしていたというのもあるが、マネージャーの姿を無意識に探していたからでもあった。
「あの、社長……
高木の姿がないことに内心ホッとしつつ、そらは社長へと
「んっ、高木くんかい? 彼ならちょっと出ているよ」
パーテーションの向こうから返ってきた社長の声に、そらは質問を続けた。
「そう、ですか……いつ頃戻るんですか?」
「う~ん、出先の都合次第ではあるけど、少なくとも午前中に戻ってくることはないかな。あっ、飲み物は冷たいお茶でいいかい?」
「はい、ありがとうございます」
「うん、じゃあ、ちょっとだけ待っておくれ」
「はい」
ペタペタというサンダルの音が遠ざかっていくのを耳で感じながら、そらは視線を上向ける。
目に入った壁掛け時計が指し示していた時間は、午前10時を少し過ぎた頃。
社長の話が合っているとすれば、高木が戻ってくるまで、どんなに早くとも2時間はかかることになる。
「でも、打合せは10時からって話だったよね」
そらは本日のスケジュールを思い返してみるが、変更があっただとか、そういう連絡があった記憶はない。
マネージャーが仕事をブッキングさせてしまったのか、それとも単純に忘れただけなのか、そらは疑問に思う一方、高木と顔を合わせないことに安堵していた。
「どっちにしても、今日は会えないってことだよね」
この状況が続くことに一抹の不安はあったが、それでもそらは幾分落ち着きを取り戻し、社長の戻りを待つことにした。
それから間もなくして、可愛らしいサンダルの音を引き連れて、社長の
「はい、どうぞ。麦茶しかなくて悪いね」
テーブルにお盆を置くと、社長は麦茶の入ったグラスの一つをそらの前へと差し出した。
「いえ、ありがとうございます」
小さく頭を下げ、そらはグラスを受け取る。
カランと氷が奏でる涼やかな音に、そらの緊張した心と部屋の温度を少しばかり下がる。
「ところで、そらちゃん。今日の打合せなんだけどさ――」
「は、はいっ」
対面に座り、早速話を切り出す社長に、そらはグラスを置いて姿勢を正した。
そんなそらに社長は緊張を解くように朗らかに笑い掛け、語り始めた。
「いやいや、そんなピシッとしなくてもいいよ。今日はそらちゃんにとって、良いニュースがあったから、それを伝えるために来てもらったんだ」
「良いニュース、ですか?」
思い当たる節がまるでなく、そらは社長へ素直に聞き返した。
すると、社長はもったいぶった素振りを見せた後、拍手と共に発表を行った。
「我が社のバーチャルアイドル、うしろちゃんのWEB番組出演が決定しました!」
「――へ?」
まったく予想外の発表に、そらは間の抜けた声を上げた。
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