第32話 揺るがぬ心

 『とりかわ』によるお笑いライブが終了してから数分後。


 控室ひかえしつは笑顔と興奮と熱気であふれていた。


「いやぁ、よかった。ちゃんとウケたし、大きなミスもなかったし――」


 そう語ると、立川たてかわは上機嫌でペットボトルのお茶を口に含む。


「これだからライブってのはやめられないっすよね」


 続いて鈴木すずきも高揚した様子で立川に同調する。


 そのやりとりからも、二人のライブに掛ける思い、そして達成感に充足じゅうそくを得ていることが容易にうかがえた。


「これも、そらちゃんが来てくれたおかげだよ。本当にありがとう!」


 そんな成功による快感を共有しようと、鈴木はそらへと話しかけ、手を取ろうと近付く。


 だが、その手は寸前のところで止まり、そらに触れることはなかった。


「す~ず~きぃ~? どさくさに紛れてそらちゃんに触ろうとするな!」


 立川は笑顔を崩すことなく、鈴木の襟首えりくびをぐいっと引っ張り、自らの方へと引き寄せる。


「そんな……せめてご褒美ほうびで握手くらいは――」


「この前の現場も褒美なしで頑張ったよな? じゃあ今回も大丈夫だよな?」


「それは、そうっすけどぉ」


「あの、立川さん? 私も握手くらいなら、いいですけど……」


 今にも泣きだしそうな顔をする鈴木を見て、そらは右手を差し出そうとする。


 ただ、その申し出を立川は笑って断った。


「いやいや、アイドルの握手は安売りするもんじゃない。それにこいつは握手とか言ってそのまま抱き着こうとするから、だまされちゃいかん」


「えっ、鈴木さんて、そんな人なんですか?」


 立川の忠告に、そらは思わず鈴木へと視線を向ける。


 すると、目が合った瞬間、鈴木は気まずそうに目をそらした。


「――な?」


 『わかっただろ?』という言葉を凝縮した立川の一言に、そらは無言にうなずく。


 まるでコントでもやっているかのような、軽快でテンポのよいやり取り。


 その空気の中、聞き慣れた革靴の足音と共に、マネージャーの高木たかぎが姿を現した。


「お待たせ。交通費の件でちょっと先方せんぽうから話があって……あっ、ライブの成功、おめでとうございます」


 『とりかわ』の姿を視認するなり、祝福の言葉を贈る高木。


 対して立川と鈴木は、まんざらでもない様子で謙遜けんそんした。


「いやいや、今日はお客さんが優しかっただけですわ」


「そうっすよ。俺なんか最初の方で一か所噛んじゃったし――」


「それでも笑いに持っていけたのは、二人の実力があってことですよ。それでは私は帰りの車の手配してきますから、荷物の準備をお願いします」


「わかった。いつもお疲れさん」


 流れるように交わされていく、マネージャーと芸人のすきの無い会話。


 そこに、そらの入り込む余地などなかった。


 しかし、このタイミングをいっしては、そらの思いを高木へ届けることは困難であることもまた、明白であった。


「はい、じゃあ、ちょっと失礼を――」


 高木がスマートフォンを手に、部屋を出るべく半身になった瞬間だった。


「あのっ、高木さんっ!」


 そらの口から、今日一番の大声が飛び出す。


 それは、勇気であるとか、とっさの衝動から生まれたものではなく、純粋に『バーチャルアイドルになりたい』という思いがあふれたがゆえのものであった。


「そら……ちゃん?」


 突然の出来事に、キョトンとした顔でそらを見つめる高木。


 そして『とりかわ』の二人が状況を飲み込めず頭に疑問符を浮かべている中、そらはハッキリとした口調で、宣言をする。


「私は確かに歌が好きです。でも、私がなりたいのは高木さんが思っているような、現実のアイドルじゃなくて――」


 静まり返る室内。


 そこに、そらの大きく息を吸う音が上がった。


「ファンと同じ目線で歌って、笑って、元気を与える――バーチャルアイドルなんですっ!」


 自らの思いのたけをぶつけたそら。


 それはあまりにも純真で、目映まばゆく、力強く、その場に特大の寒波が訪れたかのように、その場にいた者たちの目を覚まさせるものだった。


 ゆえに、高木も即座に返答をすることができず、逃げるように目を伏せ、顔をそむけた。


「……そらちゃんの言い分はわかりました。それじゃあ、僕は車を手配してきます」


 素っ気ない口調でそう言い残すと、高木は廊下の奥へと姿を消した。


「えっ、えっ? そらちゃん?」


「これって、一体どういうこと?」


 状況が理解できない立川と鈴木の戸惑いの声が、三人残された控室の温度をわずかに上げたが、静まり返った空気は最後まで盛り上がりを見せることはなかった。

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