第四十三話

 いつの間に眠っていたのか。ロイは、ベッドの傍らでジャンの手を握ったまま、自分まで意識を手放していた事に気づき身体を起こす。

 時計は、そろそろオーク座へ向かった方がいい時間を指していたが、スヤスヤと寝息を立てるジャンを起こすのは躊躇われた。


(こんなにも弱ったジャンを見るのは初めてだ)


 昨日、エリックが突然降板する事態に見舞われたロイ達は、ジャンに伝えれば、必ずこの危機を乗り超えられると信じ、ヘッドヴァン家へ向かった。だが、自分達のそんな期待が、かえってジャンを追い詰めてしまったのかもしれない。

 

 明け方近くに、エマがトーマスとロイを呼びに現れ、店で酔い潰れるジャンを見た時、ロイは少なからずショックを受けた。ジャンとて決して万能なわけではない。自分と同じ、人並みに心の弱さを持つ人間なのだ。

 額の汗を拭いながら、やるせない気持ちでジャンを見つめていると、その瞳がゆっくりと開き、ジャンは小さく言葉を発した。


「これは夢か?」


 まだ微睡の中にいるような目でロイを見上げ、ジャンは再び微かに唇を動かす。今度はなんと言っているのか聞こえず顔を近づけると、ジャンはロイの手を強く握りしめたまま、頬にキスをしてきた。


「ロイ、会いたかった」


 熱っぽい声で囁かれ、ロイは慌ててジャンから顔を離す。


「ど、どうしたんですか?」


 ジャンの唐突な言動に驚き尋ねると、ジャンは束の間茫然とした表情を浮かべたが、やがてハッキリと目覚めたのか、みるみる顔が赤くなっていく。


「すまない、夢だと思って。忘れてくれ今のは」


 握っていたロイの手を離し口元を抑えると、ジャンはそのまま恥ずかしそうに俯いてしまった。やはり寝ぼけていたのだとわかったロイは、大丈夫ですと首をふる。


(誰かと間違えたのかな)


 でも、ジャンは確かに、ロイの名を呼び会いたかったと言った。


(夢の中で、俺に会いたいと思ってくれていたのだろうか?)


 そう思った瞬間、ロイは胸が高鳴るような甘い痺れを感じたが、気のせいだと即座に否定する。今まで誰に対しても抱いた事のないその感覚が、ロイにはひどく罪深いものに思えたのだ。


(きっと、まだ俺を女性扱いしていた頃の夢を見ていたんだろう)

「そろそろオーク座にみんな集まる時間ですけど、行けますか?」


 自分の心を納得させそう尋ねると、ジャンは頷きながらも辛そうに顔を歪める。


「正直、これから皆に会うのが辛い」


 ジャンの返答に、ロイは言葉をつまらせた。エリック説得の失敗は、ジャンの自信を、根こそぎ全て奪いさってしまったのだ。


「ダニエルさんの案通りにするのはダメなんですか?」


 ジャンをどうにか元気付けたくて言葉を絞り出してみるも、ジャンは静かに首を振り語りだす。


「いや、ダメではない。確かに、オリヴァーをハリーにして登場人物を減らし、オーク座の他の俳優にグラウディオンをやってもらう手段はある。だが、今回は女王を満足させなければエドワードを救えないんだ。

今から脚本を変えてしまったら、付け焼き刃になるのは目に見えている。情けないが、俺は今日一日で、自分も女王も納得させられる脚本に変える自信がない…」


 ジャンの弱音に、ロイは胸が痛くなる。


「エリックに言われたよ、俺が素直に父親の言うことを聞いていれば、こんな事にならなかったと…」

「え?」


 だが、次に発したジャンの言葉は意味のわからないもので、ロイが不思議に思って聞き返すと、ジャンは初めて聞く話しを口にした。


「すまないロイ、エドワード伯爵逮捕も、今回の妨害も、すべて俺の父の策略だ。父は俺を自分の意のままにするためにこんな事をしたんだ。俺は、皆に責められるのが怖くて、父が関わっているとわかっていながら黙っていた。劇作家をやめたくない一心で、お前達に真実を告げず巻き添えにしたんだ」


 まるで神に懺悔するように、ジャンは言葉を続ける。


「俺が黙って父に従ってさえいれば、こんなことにはならなかった。もう、女王の前で御前公演を行うのは無理だ。

ロイ、俺は今から父に土下座して、エドワード伯爵の解放とオーク座の再開を訴えてくる。

だがらおまえが代わりに皆に伝えてくれないか?俺はもう二度と、劇作家としてここに戻る事はできないだろうが、エドワードとオーク座だけは、自分の命に変えてでも…」

「いい加減にしてください!」


 後ろ向きな考えに囚われ止まらなくなるジャンの言葉を、ロイはたまらず大声で遮った。


「エドワード伯爵が捕まったのも、オーク座の危機もあなたのせいじゃない!

ジャンは劇作家を続けたいんでしょう?エリックに何を言われたのか知りませんが、あなたが犠牲になる事なんて、誰も望んでいない!」


 驚愕するジャンの肩を掴み、ロイは決然と言葉を放つ。


「演劇を誰よりも愛してるあなたが、父親の妨害に屈して諦めるんですか?

俺は、あなたが彼に殴られる姿を見た時、とても辛かった。もう、あなたのあんな姿見たくない!俺はジャンに、夢を諦めて欲しくないんです!」


 言いながら感情が昂り、涙が滲んでくるのがわかる。なんとか涙を堪え、再び口を開こうとしたその時、不意にジャンの指が肌に触れ、ロイの目尻をそっと拭った。


「俺は、おまえの涙に弱い。だから、泣かないでくれ」


 ジャンの言葉で、堪えていたはずの涙がいつの間に溢れていたことに気づいたが、ロイは構わず、涙を拭ってくれたジャンの手に、自らの手を重ねる。


「どうか、諦めないでください。演劇なんて、まともに観たことすらなかった素人の俺に、不可能も可能になりうると教えてくれたのはあなたじゃないですか?あなたがいたから、俺は…」


 そこまで言って、ロイはハッとしたように黙りこむ。浮かんだのだ、脚本を変えずに済む方法が。エリックの代役をできるかもしれない唯一の人間。


「…あなたが、ハリーを演じる事はできないんですか?」

「え?」


 ジャンは心底驚き固まっていたが、ロイは本気だった。つきっきりで指導されていた時、ジャンは全ての配役のセリフを覚えていた。特にアリアンはハリーとの絡みが多く、ジャンがハリーの台詞を言い、何時間も練習する事もあった。


「あなたも学生の時、舞台で演技をしていたと言ってましたよね?」

「ちょっと待てロイ、それはいくらなんでも無理だ。俺はシェイクスピアのように俳優だったわけじゃない。学生の時少しやってただけで…」

「俺には、絶対に自分には無理だって思うなって言ってたじゃないですか」

「おまえは1週間時間があっただろう」

「俺はまるっきりの素人でしたけど、あなたはずっと演劇に携わってきた人だし、俺やオーク座の俳優達に演技指導もしていた」

「違う、俺ができるのはあくまで演出だ、俺自身俳優のように演じられるわけじゃない」

「じゃあ他に方法があるんですか?あなたは、今から女王を納得させる脚本に変える自信がないと言った。だけど、脚本を変えず公演するには代役を立てるしかない。今この時点であなた以外にできる人が他にいますか?

おまえなら絶対にできると言い続けてくれたあなたが、せっかく女王陛下が与えてくれたチャンスを、俺にはできないの一言で諦めるんですか?」


 ロイの言葉を聞いていたジャンは、やがて額を抑え戸惑うように苦笑いを浮かべる。


「参ったな全く、俳優ってのはそんな甘いもんじゃないんだぞ」


 確かに、1週間時間があり、エドワード伯爵が逮捕された事でさらに稽古期間が伸びたロイと、明日までしか時間がないジャンとでは全く状況が違うのかもしれない。それでもロイは、ハリーの代役ができるのは、ジャン以外にいないと確信していた。


「俺はあなたから見たらまるっきり子どもで、滑稽な事を言ってるのかもしれない。でも俺は本気です!可能性があるなら諦めたくない!

あなたを、あなたの夢や自由を奪おうとする人間から守りたい!あなたと共に戦いたいんです!」


 真っ直ぐジャンを見つめ、自分の思いの丈をぶつけた次の瞬間、ロイはジャンに強く抱きしめられる。


「…ありがとう、ロイ」


 ジャンの感謝の言葉を聞き、自分の真剣な思いが伝わったのだと感じたロイは、ジャンの背中に自らの腕を回す。


「やってみるよ」


 耳元で囁かれた、ジャンの決意の言葉。


「本当ですか?」

「ああ、正直まったく自信はないが、おまえにここまで言われたら、やらないわけにはいかないもんな」


 ジャンの顔が見たくて身じろぐと、ジャンは抱きしめていた腕を緩め、ロイの顔を覗きこみ言った。


「あれだけ偉そうに指導していたが、俺自身、演じる事に関しては素人に毛が生えたようなものでしかない。ロイ、おまえが俺をリードしてくれるか?」

「はい!」


 嬉しくてたまらず笑顔で頷くロイに、ジャンは頬を寄せ、再び痛いほど強く抱きしめてくる。


(この人が大切で大好きだ)


 湧きあがるその感情が、純粋な親愛である事を疑う事なく、ロイはジャンの腕の中で、幸福を噛み締めていた。

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