第三十一話

 人々が寝しづまった頃、ジャンは自分の部屋を抜け出し、長い廊下からバルコニーへと繋がる窓辺に一人佇んでいた。この、ヘッドヴァン邸二階南翼側は、女王のために、全ての部屋から廊下に至るまで真新しい絨毯が敷かれ、壁には美麗な刺繍に彩られたタペストリーが整然と飾られている。


 女王と親密になれずにいる間、ジャンとて何もしていなかったわけではない。女王の侍女や若い衛兵と世間話するくらいには仲良くなり、それとなく女王の情報を探っていた。そこでジャンが、役にたつと思えた情報は二つ。

 エセックスが亡くなってから、女王は時折、寝間着に着替えることなく一晩中窓の外を見て立ち尽くしていることがあるということ。そしてもう一つは、今回の行幸が政治から離れた休息である事をより深く味わうため、外の警備は厳重だが、自分の寝室の前に衛兵は置いていないということ。女王と二人きりになるには、女王の寝室に忍びこむしかなく、ヘッドヴァン邸にいるジャンがそうすることは容易い。しかし、怒りを買い不敬罪になる可能性の方が高く、そこまでする勇気はさすがになかった。


 ジャンがこの窓辺に来た理由は、風光明媚を愛する女王が、もしかしたら一人この場所へ来るかもしれないという希望的観測からだ。女王の寝室からも外の景色を見る事はできるが、ジャン自身、幼い頃から愛していた、夜の月が最もよく見えるこの光景には敵わない。暗闇の中、人工的に作られた池の水面に映しだされる月はとても神秘的で、ジャンはここへ来た目的も忘れる程夢中で、その美しさに見惚れる。


(ロイは今、どうしているだろう)


 月を見ながら、ジャンは、ここへ来てから一度も目にすることも、触れることもできないロイの姿を思い浮かべる。

 

(会いたい…ロイ…)


「エセックス?」


 とその時、後ろから突然声が聞こえ、ジャンは慌てふためき後ろを振り返った。そこにいたのは、紛れもなくエリザベス女王その人であり、ジャンは言葉を失う。女王と二人になれる僅かな可能性にかけて、これから毎晩この場所へ通うつもりだったが、まさかこんなにも早く女王と鉢合わせするとは思っていなかったのだ。


「エセックス、私を恨んであの世に連れにきたのか?」


 女王の言葉で、月明かりのみに照らされた暗闇の中、女王が完全にジャンを、この世にいないエセックスだと思いこんでいることに気がつく。


「陛下、私の顔をよく見てください。私はエセックスではありません」


 女王を興奮させないよう、ジャンは平静な声で訴えたが、内心、このまま騒がれたらおしまいだと気が気ではなかった。


「陛下を驚かせて申し訳ありません。衛兵に代わり、今夜は私が階下で護衛するつもりだったのですが、今夜はあまりにも月が美しかったので、つい引き寄せられるようにこの場所へ来てしまいました」

「月が好きなのか?」

「え?」


 思わぬ質問をされ、ジャンは戸惑う。


「月が好きなのか?太陽より?」


 もう一度同じ質問をする女王に、ジャンは頭を巡らせた。これは、どう答えるのが正解なのだろうか?取り入りたい相手には、相手が喜ぶ言葉を投げるのが一番だと知ってはいるが、女王の荘厳で深い瞳に見つめられ、ジャンは本心を言うことしかできなくなる。


「太陽も好きですが、私は、夜の闇に浮かび形を変える神秘的な月に、より心惹かれます」


 ジャンの返答に、それまで射るようだった女王の瞳が少しだけ和らぐ。


「なるほど、確かにおまえはエセックスではないな。あの男は昔、私を自分の太陽だと言った。太陽を知ってしまったら、月を愛することはできないとな」


 女王の反応にホッとしながらも、ジャンは改めてエリザベス女王を見つめる。無駄な肉の一切ない骨張った身体と、皺の目立つ容貌にそぐわぬ胸元の大きく開いたドレス姿は、不自然な狂気と、風前の灯である火がそれに抗い燦然と輝こうとする力強さを同時に感じさせる。ジャンは女王の前で改めて膝まずき許しを請うた。


「陛下を驚かせて申し訳ありませんでした。お詫びにどうすれば許して頂けますか?」


 女王はジャンの目の前に自らの手を掲げ、威厳ある声で告げる。


「立ち上がれ」


 ジャンは恐る恐る女王の手に自分の掌を差し出し、女王をエスコートするようにゆっくりと立ち上がった。


「このまま、私を支えていろ」


 女王はそう言うと、ジャンの手に自分の手を重ねたまま窓の外に目を向け、一心に月を眺める。今こそ女王に取り入るまたとないチャンスだというのに、ジャンは無言で、女王に寄り添うことしかできなかった。それは、女王に対する畏怖と敬意からだけではない。彼女の凛とした立ち姿から、ジャンは、悲壮なまでの孤独を感じとり、ただ黙って隣に立つことしかできなくなったのだ。


 その夜から、女王とジャンの逢瀬が始まった。逢瀬といっても、二人で約束を交わし語り合うわけではない。ただ同じ時間、夜の闇が訪れた頃、ジャンは窓辺に佇み女王を待ち、女王は当然のようにそこへ現れ二人で夜空を見上げる。

 ジャンには勿論、早く女王に嘆願しなくてはという焦りがあった。しかし、どんなに近く身体があっても、女王の心は遥か遠く、二人の間には、透明な壁が立ちはだかっているように感じられる。その上、昼間会う時の、女王のジャンに対する態度はよそよそしいまま変わらない。


(一体どうすればいいんだ…)


 人間観察が半ば趣味のジャンは、物心ついた時から、相手が自分をどう思っているのか感じとるのが得意だった。なのに、女王からは何も読み取れない。ジャンをエセックスと間違えた時以外、女王がジャンに感情の動きを見せる事は一切なかった。


(このままでは、作戦は失敗に終わる…)


 トーマスには先日、一進一退である旨を書いた手紙を送ったが、女王の関心を自分に向ける事ができなければ、次の一手を決めることはできない。いや、一つだけ、状況を打開できるかもしれない方法はある。しかしそれは、あまりにもリスキーな賭けだ。女王が本気でジャンに興味がなければなんの意味もなさず、悪くすれば女王の怒りをかい、二人きりになれる唯一の時間すら失いかねない。


(だが…)


 ジャンは決心を固める。リスクを恐れ何もしないのは趣味じゃない。状況が変わらず足踏み状態の今、行動するという選択肢以外なかったのだ。

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