第五話
「今日は酒も肉も解禁だ!」
「ハリストス復活!」
祝福ムードに包まれたチープサイド通りの喧騒を抜け、東へ向かってしばらく進んでいくと、職人や商人達が集う活気に満ちた光景は影を潜め、寂れた街が広がり始める。
ここは貧民街、ロンドンの中で最も貧しい人々が暮らす場所。ロイの家はその一角にあった。
かつてはロンドンの中心街で、貴族に指名されるほど腕の立つ靴職人だった父と、母マリア、妹ソフィの家族四人幸せに暮らしていたが、父の突然の堕落と失踪で、その幸福はもろくも崩れ去り、残された家族はこの貧民街へと追いやられる。
そんな自分達を見かねて、父の古くからの友人ジョージ親方が、徒弟としてロイを引き取ってくれたのが、ロイがまだ11歳になったばかりの頃。以来ジョージは、ロイに僅かながら給金を与え、ロイはそのお金のほぼ全てを、針仕事や糸紡ぎで家計を支えている母に渡してきた。
ジョージ親方には、返しても返しきれない恩があり、ロイの夢は、いつかジョージのような立派な親方になって、母と妹を幸せにすることだった。
母もジョージ親方も、口を揃えて、ロイの父は家族思いの優しい男だったと言う。
しかし、ロイの記憶には、酒に酔って暴れるようになった父の姿が色濃く残り、職人として一流だった頃のことは、朧げにしか覚えていない。
『ロイも大きくなったら靴職人になりたいか?』
『うん!』
膝の上に乗るロイの頭を撫で嬉しそうに笑う、人が変わってしまう前の、唯一優しい父との記憶。
一心に歩き、程なくして自分の家の前に辿り着いたロイは、不意に浮かんだ記憶を振り払うように、古びたドアを勢いよく開ける。
だが、目の前に広がる光景に、ロイは愕然とした。そこにあったのは、手当たり次第物が投げられ散乱した部屋と、今まさに腕を振り上げ母を殴ろうとする、失踪していたはずの父、ジャックの姿。
「お兄ちゃん!」
助けを求めるように、ロイの元へ駆け寄ってきたソフィを自分の後ろへ導き、ロイは体当たりをして、ジャックを母親から引き離す。
「ロイ!おまえ!父親にこんなことしてただですむと思ってんのか!この罰当たりが!」
ここへ来る前にしこたま酒を飲んできたのだろう。呂律の回っていない口調で理不尽な言葉を喚き散らす父に、抑えられない怒りが込み上げる。
「何が父親だ!今まで散々俺たちを苦しめてきた奴が、今更帰ってきて偉そうなことを言うな!」
「なんだと!このクソガキ!」
ジャックは覚束ない足取りでロイに殴りかかってきたが、身のこなしの素早いロイは、父の拳を軽々かわす。勢いのままよろけて倒れこんだジャックの胸ぐらを掴み仰向けにすると、ロイは自らの父を、憎しみのこもった双眸で睨みつけた。
「出て行け!俺はもう、何もできずあんたに殴られてるだけだった弱い子どもじゃない!」
自分の体が全く思うように動かない事に気づいたのか、ジャックは突然態度を変え、殺気立つロイに媚びたように笑いかけてくる。
「ロイ、ちょっと落ち着いて俺の話も聞いてくれよ」
「酔って暴れて母さんを殴るような奴の話なんて聞きたくない!」
「酒のせいで我を失ってただけさ、悪気はなかったんだ。なあロイ、今の俺は、女に捨てられ、金も帰る場所もない一人の哀れな男だ。
ここで一緒に住まわせてくれなんて図々しいことは言わねえから、せめて金だけでも貸してくれないか?なあ、頼むよ」
酒臭い息を吐き、いけっしゃあしゃあと宣うその顔には、一流の職人だった父の面影など一切なく、どこまでも堕ちた人間の醜悪さが刻み込まれていた。
こんな男に、家族で必死に稼いできたお金を、鐚一文だって渡したくない。後にその選択を後悔する事になるのだが、この時のロイに、そんな先の未来の事などわかるはずもなかった。
「あんたみたいな屑に渡す金は無い!今すぐこの家から出てってくれ!」
ロイは父から離れ立ち上がると、心底軽蔑した声で、拒否の言葉を告げる。途端にジャックは逆上し、ロイに掴みかかろうとしたが、ロイは躊躇なくその腹を蹴り上げた。再び倒れこんだジャックは、獣のように唸りながら悔しそうにロイを見上げる。
束の間、二人は無言で睨み合っていたが、やがてジャックは薄気味悪い笑みを浮かべ、狂ったように大声をあげて笑い出した。
ロイも、なすすべなく立ち尽くしていた母と妹も、そんな父を、不気味な化け物を遠巻きに眺めるように、息を詰めて見つめる。一頻り笑い続けたジャックは、焦点のあっていない目をロイに向け言い放った。
「ふん、すっかり偉くなったもんだな。ジョージに面倒見てもらってるし?俺なんてとっくに用なしってわけだ。まあ、あいつがお前らの面倒見るのは当然だがな、むしろ、一番手のかかる赤ん坊の時から何年も養ってやってた俺に感謝して欲しいくらいだ」
(この男は何を言ってるんだ?)
意味がわからず、怪訝な表情を浮かべるロイに、ジャックは信じられない言葉を口にする。
「今まで可哀想に思って黙っててやったが、お前はな!マリアがジョージと浮気してできた穢れた罪の子なんだよ!」
瞬間、あまりの衝撃に、ロイの時は止まった。
「ジャックやめて!それはあなたの誤解よ!」
「うるせえ、おまえは黙ってろ!
いいかロイ、この淫売女は何年もずっと俺を騙し続けてきたんだ!ソフィだって本当は誰の子かわかったもんじゃねえ」
「違う!私はそんな女じゃない!どうして私の言うことを信じてくれないの?」
「触るなビッチ!俺はお前を訴えて牢獄送りにすることだってできたんだ!」
ジャックは、自分に縋りつき、泣きながら反論するマリアを乱暴に払いのけると、ゆっくりと立ち上がり、ゾッとするような目でロイを凝視する。
「その金色の髪も、碧い目も、お前は若い頃のマリアにそっくりだ。お前らのように、家長を平気で裏切る淫乱共は、俺が地獄へ突き落としてやる!」
そう叫ぶように吐き捨て、ジャックはよろける身体を鞭打つように、フラフラと立ち去って行った。
ジャックがいなくなり、部屋には嵐が過ぎ去った後のような静寂が訪れる。ロイは泣き噦る母を気遣いながらも、混乱した気持ちを抑えることができず、つい、今聞くべきではない問いを口にした。
「母さん、あの男の言ってたことは…」
「違う!私はジャックを裏切るようなことはしていない!」
マリアの決然とした声には、あれだけ苦しめられ続けてもなお、夫に貞操を誓う妻としての誇りが垣間見え、ロイは一瞬でも母を疑った自分を恥じる。
「あの人はとても優しくて家族思いで、私達のことを心から大切にしてくれていたのよ。あなたが産まれた時も飛び上がらんばかりに喜んで、私の手を握って感謝を伝えてくれたわ…」
だが、母の言葉を聞いているうちにロイは悟る。母は囚われているだけなのだ。今はもういない、思い出の中の優しい夫に。
「人の皮を被った悪魔が、ありもしないことをジャックに吹き込んで、それから彼は変わってしまったの。誤解が解ければ、きっとジャックは元のあの人に戻ってくれるわ」
これ以上この話を続けても母を傷つけるだけだ。ロイは話を変えようと、ジョージ親方からもらった小遣いを母に手渡す。
「母さん、もういいから部屋を片付けよう。このお金で、また何か食べ物をわけてもらえるかもしれない。今日は主の復活を祝うイースターなんだから3人でお祝いしなおそうよ」
マリアはお金を持つ自らの手を、虚ろな表情でじっと見つめ、ため息をついた。
「こんな風にジョージからお金もらっているんだから、ジャックにああ言われても仕方ないのかもしれない」
良かれと思ってしたことが、かえって母に自己嫌悪を抱かせてしまった事に気づいたロイは、きっぱりと否定する。
「母さんそれは違う、あの男は気が狂って滅茶苦茶なことを言ってるだけだ」
しかし、母はロイの言葉を制し、強い意思を持った瞳でロイを見つめ言った。
「ロイ、私も、ジョージがあなたを徒弟として雇ってくれていることには感謝している。時々、こんな風にお金もくれて…。でもね、彼があなたの面倒を見るのは、あなたが自分の子だからでは絶対にないのよ!」
「母さん大丈夫、ちゃんとわかってるから」
もうその話はいいと首を振るロイに言い聞かせるように、マリアは言葉を続ける。
「ロイ、よく聞いて。あなたもソフィも、神が私とジャックの元に授けてくださった大切な子どもたちよ。だからお願い、これからは、たとえジャックにどんなことをされたとしても、実の父親をあの男と呼んだり手を上げたりしないで」
敬虔で実直な母らしい言葉に頷きながらも、ロイは少しの寂しさを覚える。
(俺は、母さんとソフィをあの男から守りたかっただけなんだ…)
「わかったよ母さん、もう二度と、父さんに歯向かったりしない」
心の中の本音を口にすることはせず、ロイは母の頬にキスをし約束する。
こんなにも夫に従順で信心深い母が、他の男と姦通して子供を作るなんて絶対にありえない。父の言葉は母の言う通り、身勝手な思い込みにすぎないのだろう。でも父はなぜ、母がジョージ親方と浮気したなどと思うようになってしまったのか?
優しかったはずの父が人生を踏み外し、家族を奈落の底に突き落とすほど信じこんでしまった他人からの言葉。それはまさに、悪魔の囁きだったのかもしれない。
「お兄ちゃん」
いつの間にかロイの傍に立っていたソフィが、労わるようにロイの背中に抱きついてくる。
(主よ、どうかこれからも私たち家族に、平穏な日々をお与えください)
母を抱き寄せ、妹の温もりを背中で感じながら、ロイは強く神に祈った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます