第94話 一応崩れそうでした。

 ブラック・レギアルはここ数十年の中で、一番の動揺を見せていた。

 人間としての枠を超え三百余年。エルフにも匹敵する長命の中で、彼は感情の機微を失いつつある。その彼が久々に心を揺らしたのだ。


純魔石オリジナルコアも無しに顕翼器官を発生させるなどありえない。『女神の因子』だけでこのようなことが可能なのか⋯⋯」


 ルルエ・ラ・ヘインリーによって与えられた『素養』があるとはいえ、目の前で起こっている光景には眼を見張るしかなかった。


 自身の背に聳えている立派な翼。それと同じものをグレイ・オルサムは発現させている。

 その代償は幾ばくのものか――――それが意識化か無意識かは関係なく、恐らく命を削っているであろうことは容易に想像できた。


「ア――――ぁ――ああぁっ」


 グレイの口からはもう意思ある言葉は聞き取れない。力に呑まれ、ただ目の前のものをひたすら壊す存在となってしまったのだろう。それは若き日を振り返ったブラックにも経験があった。

 あったからこそ、彼は片手で数えられる程しか感じたことのない命の危機を悟る。


 それも彼の時は胸に埋め込まれた特殊な物質『純魔石オリジナルコア』があったからこそ発現し、暴走し、そして抑制も出来たのだ。

 それがどうだろう、目の前の青年は必要なはずのものを擁せずに自力で力を引き出している。


「ヘインリーが此奴を三人目に選んだのは、これが理由か?」


 誰が聞いてもいないのに疑問が口から吐き漏れる。それほどにブラックは動揺してるのだ。

 だが同時に、チャンスでもあると彼は思っていた。あのような無理が未だであるグレイにはそう長く保てるはずがないからだ。


 とにかく時間を稼ごう。そうすればいずれ肉体の崩壊が始まり自滅するだろうと予想し、ブラックは眼前の怪物に備えた。


 そう思考を切り替えたと同時に、ブラックの視界は大きく振れて吹き飛ばされた。


「ガッ、はぁ⋯⋯っ!?」


 気付けば膝を折り、地に四つん這いになっている。顔の右側がギチギチと痛み、頬骨が砕けていると察して即座に治癒を施す。

 しかし揺らされた脳は治癒では回復せず、グラグラと地面が揺れて思うように立つことができない。


 自分の元いた場所を見遣れば、口から涎を垂らし、シューシューと白い息を吐き出すグレイの姿。

 黒かった髪は色褪せ、鼠のような灰色に。瞳も紅く輝き、毒蛇が此方を睨んでいるようだった。

 そして背に負う翼は、髪色と同じ灰色。灰羽であった。


「思った以上に⋯⋯不味いな」


 ようやく立ち上がったブラックは先程の一撃を振り返る。

 その動きは同じ繋がる者ロストマンとして自分と同等か、それ以上の速さだった。


 「スライムが竜をむ」という諺がある。

 最弱の魔物であるスライムでも、時にはその身の全霊を持って強者を討つという教訓だ。

 今がまさにそれだろう。まさかこのような形で経験させられるとは夢にも思わぬと、ブラックは歯噛みした。


「だが、そう何度も土をつけられると思うなよ」


 剣を正眼にて構える。速さに関しては残念ながらグレイの方が上手だ。

 しかしブラックには三百年余りに渡る戦いの経験がある。守りに徹すれば暴走して単調な動きしか出来ないであろうグレイに、決して抜かれることはないはず。


「がぁぁぁぁぁっぁああああ――――っ!!」


 ブラックの思う通り、グレイは真っ直ぐに突っ込むだけでフェイントもなにもない。速さと力に任せた大振りの拳を、敵と認識した相手にぶん回すだけだった。


「ふっ!」


 左の拳を剣で捌き、蹴りを避け、そしてやけくそのように振り下ろされる右腕を、待っていたとばかりに肘から斬り落とした。

 遠心力の掛かった右腕は宙をクルクルと舞い、落ちる。断面からは勢いよく血が吹き出ているが、それを気にした様子もなくグレイは飛びかかった。


「ぐぅぁぁああっ、ああああぁぁぁっ!!」


「このっ、獣が!」


 接近を許し、剣を持つ手を振るわせまいと押さえ込まれる。その間にも攻撃は止まず、グレイは歯をむき出しにして噛みつきに掛かり、ブラックの首筋へ食いつこうとする。

 咄嗟に左手を突き出し口へと押し込めば、ブツリと皮膚が食い破られ深々と歯が食い込んだ。


 そして事態は膠着した、かに見えた。

 唐突にブラックの背から正面の腹にまで熱い痛みが奔る。


「ぐぅっ! な、なんだ――――右腕!?」


 斬り飛ばしたはずのグレイの右腕が自律して動き、ブラックの背後から鋭利な刃のように腹を突き破ったのだ。

 腹部から覗く指がぐにぐにと蠢き、這い出ようと暴れる。内臓を掻き回される痛みで、ブラックは堪らずグレイを蹴飛ばして距離を取った。


 離れると未だ腹を掻き毟るグレイの右腕を乱暴に引き抜き、忌々しげに放り投げる。地面に叩きつけられた腕はなお動き続け、主人へ駆け寄る犬のようにグレイの元へと戻っていった。


 グレイはなんの感慨も無さげに右腕を拾うと、切断部に押し付け傷口を再生させた。

 わきわきとくっ付けた右腕の調子を確かめると、またブラックに赤い瞳を向け低く唸る。


「はぁ、はぁ、はぁ、クソッ!」


 突き破られた腹の傷は、正直大したことはない。息を整えている間にすぐに傷穴は癒える。

 しかしこうも莫迦にされたような傷を負ったのは初めてのことで、それにブラックはひどく心を揺さぶられていた。


「もういい、節約は無しだ! 消し飛べぇっ!!」


 展開したのは先ほど使った無詠唱の多重氷結魔法。しかしその総量は先程の数倍の量だ。どこを見上げても氷柱で埋め尽くされ、空が見えないほどに。


 号令するようにブンと剣を振り下ろせば、万を超える氷柱の嵐がグレイへと飛びかかっていく。


 ブラックはこの魔法に多少なりの愛着があった。元々魔法が達者ではなかった彼が、師に教えを乞うて初めて行使できたのがこの氷結系の魔法だった。

 それ以外の魔法の研鑽も怠らなかったが、特にこの氷柱の魔法には力を入れた。


 威力、制圧力、拘束力。どれを取ってもバランスの良い技だとブラックは思っている。

 ちなみにその技術を最初に教えたのは、彼が疎んで止まないルルエ・ラ・ヘインリーであったわけだが。


 これまで相性の悪い炎系を得意とする敵以外は、概ねこの技で封殺してきた。

 それ故の自信。しかし今目の前にいるのは、ただの魔法を使える者ではない。精霊術師と呼ばれる希少な存在なのだと、ブラックは完全に失念していたのだ。


「――――――――――――カァッ!!」


 一瞬、その場が眩い光に包まれた。その光量にブラックは思わず眼を瞑ってしまう。


 眼が焼かれるほんの合間に見えたのは、何処から現れたか知れぬ紅蓮の炎で形取られた竜の姿。

 その炎竜が口を開くと小さな白い球体が現れ、そこから無数の光の柱が伸びていった。


 次に視界が戻った時、ブラックは唖然とした。自らが放った氷柱がグレイに刺さることはなく、それどころか彼の周囲の地面にまで一本も残ってはいなかったのだ。


 自身の最高の魔法を、覚醒して間もない、それも力に呑まれ暴走している相手にも関わらず、完全に相殺された。

 その事実にブラックは戦慄わなないた。


「あれは⋯⋯火の精霊、竜王か」


 グレイの背後で、炎の竜が彼を護るかのように懐へと覆っていた。


「元素精霊の顕現⋯⋯ふざけている」


 脚が震えた。そんな経験は久しぶり過ぎて、思わず笑ってしまう。

 そして自分のそれまでの傲慢さを振り返り、場違いながら腹が立った。


 こんな戦いを起こさなければ、面倒なことにはならなかった。適当なところで切り上げていればよかったのだ。何故そうしなかった?


 それはグレイがルルエ・ラ・ヘインリーの庇護下にあるということが許せなかったからだ。

 ルルエの戦力の排除など建前だった。ただの醜い嫉妬心。それがこんな結果を生み出した。


「あ――アぁ――――ァァ――――――――ッ」


 グレイが何事か叫びながら、灰羽の翼を大きく広げ空へと上がった。

 それに付き従うように炎竜も舞い上がり、そして空には様々な光が溢れた。


 輝く羽根を煌めかせる凛々しき妖精。

 尾ひれを弾き宙を泳ぐように翻る美しき人魚。

 岩で出来た逞しい巨躯を軋ませて存分に誇る岩人。

 そして、まるで世界の全てを覆うかのように遥か天から降ろされた巨大な半透明の「両手」


「妖精王、海王、巌窟王、そして宇宙の手ワールドエンドっ! こんなものに、どうして勝てようか⋯⋯」


 ブラックが膝を突く。畏怖、諦観、懺悔。様々なものがない混ぜになり、自然とそうした。

 彼の背にあった黒い翼はハラハラと羽を散らし、次第に消えていく。髪は漆黒から元の金色へ戻り、瞳も紅から蒼い珠玉のように変わる。


「⋯⋯あの黒竜の娘に手を出さなければ、こんなことにはならなかったか」


 小さく溜息を吐く。そしてこうべを垂れ裁可が降るのを待った。


 しかし、いくら経っても一向にブラックが消滅することはなかった。

 訝しんでもう一度空を見上げれば、ちょうど五元素の王たちが霞のように消え始めていたところだった。

 何が起きたのかと一瞬思考が止まったが、その答えはすぐに浮かんできた。


 グレイが限界を迎えたのだ。


「ァ――――――――ぁ――ぁ――――――――」


 精霊たちは完全に霧散し、空に浮かぶグレイ自身も翼から毟られるような勢いで羽が抜け落ちていく。

 浮遊も維持出来なくなり、ドスンと地に堕ちた。


 翼には一本の羽も残らず、背中から長い棘が生えているような状態に戻る。

 倒れたグレイはピクリピクリと痙攣し、虚な眼をしながら泡を吹いていた。


「た、助かった⋯⋯のか」


 その光景に安堵し、そしてこれからどうするのかブラックは悩んだ。

 このままグレイを生かして敵対すれば、絶対的な脅威となる。しかし自らの真の「敵」のことを考えれば、これほどの強大な戦力を世界に残さないのは大きな損失だ。


 この戦いでブラックの中でグレイの重要度は格段に上がった。無論比例するように警戒度も跳ね上がったが。

 しかし、と今の状態のグレイを見て顔をしかめた。


「ここまで力を使っては⋯⋯どうすることも出来んな」


 倒れたグレイの身体は、所々がひび割れるかのように亀裂が入っていた。そこからは血も流れ出ず、まるで土くれの人形が乾燥して崩れようとしているようだった。


「残念だが、このまま朽ちさせるしかない――――」




「あらあらあらぁ、随分派手にやったわねぇ〜?」




 その時ブラックは、自分の耳がおかしくなったと信じようとした。

 絶対に聞きたくなかった声。だが現実とは非常なもので、耳を塞いでも視界に入れば認めなければならないのだ。


「⋯⋯ヘインリー」


「久しぶりねぇアルフォンス。あ、今はブラックだったっけ? その名前、ちょっとキザったらしいんじゃなぁい?」


 煽るように酷くいびつな笑顔を振り撒きながら、ルルエ・ラ・ヘインリーはグレイ、ブラック二人の間に舞い降りた――――。

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