瑠璃、幼少期 7

あたしは怖くなってその部屋を出た。トイレから戻ってきた風を装っても内心の動悸は収まらなかった。男子学生と目を合わせる母が別人に見えた。

それから小一時間で母が戻ってきて、あたしたちは帰ることになった。

「ママは日本語話せるの?」

帰路の途中で質問する。母はなんでもないように答える。

「本当はね、ちょっと話せるの。私が日本語を話せたらパパをビックリさせたいの。だから、ママが完璧に習得するまでは内緒よ?」

これはパパへのサプライズだとあたしに言い聞かせる。それを承諾して頷くけれど、内心は疑心があった。

男子学生相手に喋っていた母の日本語は「ちょっと」のレベルではない。なぜそれを隠そうとするのか、あたしには分からなかった。

翌日になると母は家を空ける時間が多くなった。

「今ね、ママが必要だって言っている人がいるの」

家にいてくれないことに文句を言うと母は困ったように言い聞かせる。

「ママが助けに行かないと。瑠璃はママの代わりにお掃除とお洗濯をお願いしたいの」

「一緒にいてくれないの?」

ずっと一緒にいてくれるのだと楽しみにしていたあたしは突然の裏切りに眉を垂らす。

「ほんとにごめんね。お土産買ってくるから」

「どこ行くの?」

「ママを必要としているところよ」

明確なことを言ってくれない。「YES」とは言いたくなかった。あたしと一緒にいて欲しい。

「お願いだから」

笑いながら縋る母は今にも泣きそうに瞳を潤す。あたしの願いも聞いて欲しい。でも、そんな顔されては自分の思いを押し殺すしかない。

あたしは小さく頷いて承諾を許す。

「ありがとう!瑠璃は天使の子!愛してるわ!」

「愛している」を貰ったのに嬉しくなかった。いつの日か言っていた「ママには瑠璃しかいない」あの言葉は何だったのか。



母は家を空けるのが多くなった。あたしと一緒に過ごしてくれる時もあったけれど、そういう日は夜いなくなって帰るのは朝だ。

両親のいない広い家の中で母の言いつけを律儀に守っていた。掃除、洗濯、料理を毎日こなす。そうすれば、また母が褒めてくれるのだと信じていた。

家事が終われば暇な時間が待っている。そういう時は父の趣味であるディズニー映画を観ていた。眠れる森の美女、シンデレラ、美女と野獣。繰り返し観て、何度も再生ボタンを押した。すっかり飽きてしまった。

そうすると今度は教科書を開いて勉強したり、お菓子作りも励りした。

母が帰ってくればできたお菓子を自慢した。しかし。

「今は甘いものの気分じゃないわ。冷蔵庫に入れて」

お菓子を作っても、ご飯を用意しても、家内を綺麗にしても、褒めてくれなくて「愛している」も言ってくれなくなった。

学校はつまらない。だから、楽しい日を過ごそうと思った。なのに、母はあたしを置いてどこかへ行ってしまう。居場所のない孤独を初めて知った。

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