瑠璃、幼少期 5
すると、どこからか甘くていい匂いが漂ってきた。ポップコーンワゴンだ。ダッフィーとトランクを模したバスケットに詰まれたミルクチョコレート味のポップコーン。
甘いポップコーンは大好きだ。それがダッフィーのバスケットに入ってくるのなら物欲が湧いてくるのは自然の道理というものだ。
「早く行って来い」
ベンチに座る父。自分の要望を出した矢先、「あれが欲しい」とは言えなかった。
「シェリーメイに会えるわよ」
待ち30分の長い行列とぬいぐるみとの触れ合いが数分。割合わない時間配分でも当時のあたしにとっては些細な時間差だ。一瞬の夢を味わった後、父が待つベンチに戻った。
父の脇にはダッフィーとトランクのバスケットが収まり、その中にはポップコーンが詰まっている。
「それ、どうしたの?」
男1人でワゴンの前に並び、可愛らしいバスケットを買い、2人を待っていたのだ。母が驚いて尋ねると父は無言のままバスケットをあたしに差し出す。
私はますます訳が分からなくなり、目を丸くさせて父を見上げた。
「珍しい。瑠璃のために買ったの?」
「暇だったんだ。どうした?欲しくないのか?だったら返品するぞ」
いつもと変わりない父の威圧的な発言。けれど、その手にはあたし為に並んで買ったポップコーンがある。
手を伸ばしてポップコーンバスケットを受け取ると正面のダッフィーと目が合った。可愛いい熊のぬいぐるみはこちらに笑顔を向け、あたしも笑顔で返す。
「ありがとうパパ」
明るく跳ねた声色は自然と父に感謝を述べた。
それを言われるとは思っていなかっただろう。父が驚いていると母が嬉しそうに微笑んだ。
「よかったわね。私もポップコーンちょうだい」
娘におねだりする母の様子がなんだか面白くて、もっと楽しませようと1粒のポップコーンを母の口へと投げ入れた。2人はおかしく笑い合う。弾んだ心は父にも向けられ、あたしはポップコーンを父に差し出した。
「パパの分」
母とよく似た青い目を細めて言った。この時の私は機嫌が良かった。父もそうだった。だから、暇な時間を使ってバスケット付のポップコーンを買おうと思えたし、あたしも笑顔で父と向き合えた。
「ありがとう」
父は素っ気なく答えながらもあたしからの贈り物を受け取った。
あたしが作ったお菓子は食べようとしなかった父がやっと貰ってくれた。口一杯に広がるミルクチョコレートは幸せで甘い味がした。
日本での思い出と言えばこれぐらいしかない。移住してから父は新しいプロジェクトとかで更に家を空けるようになり、母は1年経っても日本語を覚えられなかった。
母には母国語以外の言語は必要ないと父が決めつけていた。挨拶の言葉ですら覚えるのを許さんかった。
そうすると、言葉の壁が母を狼狽させ、ぎこちない意思表現の姿を恥だと認識してしまったせいで挨拶すらしようとせず、近所の人とコミュニケーションをとろうとしなかった。
あたしも同じく新しい環境で、日本人ばかりいるクラスメイトに馴染めずにいた。
学校は父が投げやりに選んだ。フランスからの転校生ということで最初は物珍しく、あたしに集ったけれど、矢継ぎ早に飛び交う異国の言葉を理解出来なかった。
日本語はわからないわけじゃない。だからといって馴染んでもいない。だから、単調で短い返答しかできないし、言葉が理解できない言動は曖昧な笑みで返した。
誰に対しても同じ反応をするから次第にクラスメイトもつまらない人と判断されて寄り付かなくなった。
担任の先生はわかりやすい日本語教本をくれたが、すぐに日本語の授業についていける訳じゃない。国語の朗読もまともにできず、更に口を噤む。
学校に行くのが怖くなっていった。
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