糸 1
静寂に響くのは水の音。ひと雫が水面に落ちる音。あたしを見下ろすのは白い大樹。葉も花もない枝だけの真っ白な木。
そこは確かに静寂が存在する。でも完璧じゃない。音は3つある。水音とあたし、そして花柄の赤い着物を着た女性。
彼女は大樹の幹に腰かけて振り向く。
「糸を辿っていないね」
儚く悲しい笑みを黒い長髪がふちどる。
「この時をずっと望んでいたけどまだ駄目ね」
「あなた、誰?」
赤い着物、カンダタが話していた想い人を連想させる。
彼女は首を横に振り、あたしの質問を拒否する。
「何を話しても無駄。目が覚めたら忘れるもの。糸を辿っていっていればここに着いた時点で私が誰かわかるはずよ」
「あたしはエスパーじゃないの。人の心が読めるはずないでしょ」
「白糸と白鋏を持つ人の台詞じゃないわね。いずれは心も読めるようになる」
冗談でしょ。そもそも、なんで彼女はそれを口にするのかしら。まるで熟知しているような言い方だわ。
「でも、そうね。せっかくきたんだし、手土産ぐらいは持たせようかな」
彼女は手招きをしてあたしは近づく。彼女は幹の上に座っていて対してあたしは地面に立っている。彼女とは目線の高さが合わないからどうしても見上げてしまう。
手土産とか言っていたけれど答えのヒントでもくれるのかしら。
そう思っていたのに彼女は親指と中指で輪を結ぶとあたしの額まで持ってくる。
パチン、と痛くない可愛らしい衝撃。
「何よ、いきなり」
不意のデコピンだった。あたしは額に手を当てる。痛くはなかったけれど不満はある。なのに、彼女は可笑しく笑う。
「新しい能力。糸を辿れるようにしたのよ。
うまく使ってね」
「話がついていけないんだけど」
あたしが不満だらなのに彼女はその疑問を1つとして解消してくれない。
これも夢なの?
そんなことを考えていると水面の床から霧が湧いてみるみるうちにあたしたちを囲む。
「目覚めだね。ぼんやりでもいいからさ、覚えていたら2人によろしくって言ってくれる?」
「目覚めても覚えてないってあなたが言っていなかった?」
「ハクレンと、あ、今は違う呼び名だったわね」
霧が濃くなっていく。白い大樹も赤い着物の女性も見えなくなって、彼女の声が遠くから聞こえる。
「ハクとカンダタによろしくね」
遠のいていく声でもその2つの名前ははっきりと聞こえた。
「ねぇ、なんであいつらのこと」
カンダタはともかくハクの名前を言うなんて。あの子はあたしの妄想の産物のはず。
何もかも消えていく霧の中。叫ぶようにして問いかけても返ってくる言葉はなかった。
そうして、あたしは夢から覚める。
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