第13話 過去①
その時の僕は小学六年生で、年齢通りの頭が空っぽなガキだった。友達がああしてるから自分もそうする。こうしたら楽しそうだからこうする。まともにその結果も予測せずに、ただ本能の赴くままに遊びまわっていた。葵との断絶は言わばその副産物であり、要するに少し拗れた子供の喧嘩だった。
きっかけは些細な事だった。
葵が教室で僕の机に飛びついてきて叫ぶ。
「ちょっとアヤト! 私の消しゴムどこに隠したの!?」
「葵の近く。でも遠くかも?」
「いいからどこ!」
「だから、葵の近くだって」
葵はキョロキョロと必死に消しゴムを探している。僕はそんな葵を、やっぱり空っぽの頭で楽しそうに眺めていた。好きな女の子が自分に構ってくれている。そんな自覚もない浮かれた気持ちのまま、このまま行けばいつものように降参してくるだろう、そう思っていた。しかし、何故か今日は違った。
「葵、ヒントあげようか?」
「………」
へらへらと言う僕を葵はきっと睨みつけると、返事もせずに探し始めた。この時点で葵の機嫌が悪いことに気がつくべきだったのだが、僕は持ち前の何も考えない性質でそれに気がつかなかった。精々、いつもより頑張ってるなぁ、ぐらいにしか思ってなかったのだ。
昼休みの終わり。葵はまだ消しゴムを見つけだせていなかった。僕はずっと葵にくっついて、降参するのを待っている。机の裏、椅子の裏、引き出しの前の出っ張り、僕の机の中など、葵は近場を隈なく探していたが、どこにも見つけられない。そして時々泣き出しそうに顔を歪めた。しかし、僕がヒントと促すと、それを無理やり抑えて探し出す。もう長いこと付き合いがあるのに、僕は葵がそんな状態であることに一切気が付かなかった。
放課後。流石にここまでムキな葵を不自然に思うべきだろうに、僕は未だに消しゴムを返していなかった。しかし当時の僕も、葵の様子がおかしいことにはようやく気がつき始めていた。
「なあ、葵。ほんとにヒントいらないの?」
「いらない。話しかけないで」
「………」
当時の葵の不機嫌の原因は母親との喧嘩だったらしい。昨日の夜から冷戦状態は続いていて、葵が頑なにヒントをもらおうとしなかった理由もそこにあったようだ。まあしかし、当時の僕にはそれに気がつかなかったのもどうかと思うが……いや、気がつく脳もなかったのか。
結局僕は最後の最後になって消しゴムを返した。葵も一緒に帰るものだと思っていると、睨まれて拒否されたのは今も鮮明に覚えている。ともかく、僕たちは最悪の雰囲気でお互いの家に帰った。
次の日も、葵は機嫌が悪かった。流石の僕も昨日の出来事があるので、葵には極力近づかなかった。しかし葵は一切話しかけてこない。僕も何故か意地を張って、葵が話しかけてくるまでは待っていよう、なんて思っていた。そして、その日は一言の会話もなく僕たちは帰宅した。次の日も、その次の日も。
一週間ほど経って、僕は何故か怒っていた。どうして葵は話しかけてこないんだと、完全に逆ギレを起こしていたのだ。もう葵に話しかけない、なんて無茶な決心で、一人どすどすとその日も家に帰った。好きな子と話せないのが辛いのは今の僕でもわかるが、発想はバカ丸出しだ。
そんなこんなで、当時は葵の隣の家に住んでいた僕は一人寂しく帰宅していた。一言謝れば済むことなのに、頑なに意地を張りつづけていたのだ。
そしてその日、事件は起こった。
帰宅した僕が母と一緒にカレーを食べていると、突然自宅の固定電話に着信があった。母がなんともなしに受話器を取り、相手と会話する。しかし、突如顔を青ざめて床にへたり込んでしまった。
驚いた僕は急いで駆け寄り、母の静止も聞かないまま受話器を奪い取るようにして相手に変わる。向こうも突然返事が返ってこなくなって慌てていたのか、相手が子供であることにも気が付かずに話し出した。
赤十字病院の職員だという女性は、父が帰宅途中に交通事故に遭い、現在も意識不明の重体が続いている旨を語った。途中で向こうも相手が子供だと気がついたのか、態度を変えて助かる見込みは十分にあるなどと言ってきたが、既に僕の思考は停止している。雷に打たれた、という表現がこれほど当てはまる状態もそうはないだろう。
母は立ち尽くしている僕から受話器を取り、傍の僕を抱きしめながら再び女性の話を聞き始める。理解が追いついていない僕も、母の腕に抱きしめられたまま漏れてくる会話を聞いていた。
× × × ×
幸い、父は後遺症もなく意識を取り戻した。通報があった後迅速に救急車が到着できたおかげで、止血をすぐに行うことができたらしい。母は何度もその救急隊員たちに頭を下げていたので、僕は一人で父の見舞いに行くことになった。
照らし合わされた番号の個室を開けると、すぐにベッドに横たわる父の姿が目に入る。全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、右足と左腕は吊るされていた。父はやってきた僕を見て破顔し、頭を自由な手で撫でてくれる。忙しくてあまり家に帰ってこなかった父との再開に僕は何と言って良いか分からず、ひたすらにだんまりを決め込んでいた。
そんな僕を撫でながら、父は自らに言い聞かせるように言う。
「人なんて、いつ死ぬか分からない。だから、今を生きなきゃダメなんだ。この一瞬一瞬にスポットライトを当てて、過去も未来も気にならなくなるくらいに今を生きる。それが、人にとって一番幸せな生き方なんだ」
独り言のようなその言葉は、空っぽに生きていた僕の胸に多少なりとも響いた気がした。気がした、というのは、その言葉を理解し、実際に役に立ったのはそれから何年か経ってからの事だったからだ。
当時の僕はその意味を深く理解できなかった。だけれども、何か大切なことを父が教えてくれているというのは分かったので、黙ったまま頷いた。父はまた、くしゃくしゃに僕の頭を撫でた。
しばらくして母が来ると、色々と怪我はしながらも無事な父の姿を見てぼろぼろと涙を流し出した。父が母を慰めている時はお払い箱だったので、僕はその間父に言われた言葉を反芻し続けていた。
ようやく母が落ち着き、父がホッとしたような表情を見せている中で、母の携帯に電話がかかってくる。母は昨日の電話の事を思い出したのか少し嫌そうな顔をしていたが、相手の表示を見ると表情を一変させて病室から出ていく。またもや病室は僕と父だけになった。
「絢斗」
父が嬉しそうに笑いかけてくる。ある程度父との会話に慣れてきた僕は、迷わずそちらの方を向いた。
「なに?」
「いや、学校はどうかと思ってな」
「………」
僕は少しだけ考えて、自分が学校生活を楽しいとも楽しくないとも思っていることを伝えた。父は少し複雑な顔をして、僕をそばに招き寄せる。そして言った。
「楽しいと思えるように、努力したことはあるか?」
「努力?」
「ああ」
努力。言葉の意味は分かっていたが、全く実感が湧かなかった。なので思いついたことを言ってみた。
「努力って、勉強とか、早く走る練習をするとか、そういうこと?」
父は笑って首を横に振る。
「違う違う。父さんが言ってる努力ってのは、何かやりたい事があって、それを叶えるために必要な事をやるってことだ。」
「やりたい事……」
考え込む僕に父がアドバイスをかける。
「ものじゃなくてもいいんだ。例えば、あの人と仲良くなりたい、とかでもいい。少しでもやりたいことがあれば言ってごらん」
「…………」
しばらく考え続けた後、僕はふと最近続いている葵とのことを思い出し、それをぽろりと口にした。
「……葵と……話したい」
「葵ちゃんって……横のあの子?」
無言で頷くと、父は顎に手を当てながら言う。
「葵ちゃんと喧嘩でもしたのか?」
「ううん。喧嘩じゃない」
「じゃあ……仲違い?」
「なかたがい?」
僕が変なイントネーションで発音すると、父は困惑し、すぐに納得顔で頷いた。
「……ああ。意味がわからないのか。仲違いっていうのは、喧嘩とかじゃないにしても仲が悪くなったり、話さなくなったりすることだよ」
僕はまた考え込み、今の葵との状態はそれに近いと結論づけた。
「多分それだと思う。葵が機嫌が悪くなってて、それで僕がもっと機嫌を悪くさせたから」
父は相変わらず諭すように言う。
「なるほど。じゃあ、まずしなきゃいけないのは仲直りなんだが……そもそも、絢斗はなんで自分が葵ちゃんを怒らせたのかわかるか?」
僕は考えた。
なぜ、葵はあそこまで怒ったのか。どうしてあんなに機嫌が悪かったのか。どうして僕と口を聞いてくれなくなったのか。
幼い頭で考える。しかし、やはりその時の僕は相当に自己中心的な奴だったようで、無意識の内に自分に都合の良いように辻褄を合わせてしまっていた。結論として、葵の機嫌を悪くさせた何かが悪いと思うくらいには。
父にその事を説明すると、父は困ったような呆れたような笑いを浮かべた。
「絢斗は、まだ自分を客観視できてないんだな。何かきっかけが有れば、主観的な見方を崩す糸口も簡単に見つかると思うんだけどな……」
やはり意味はわからなかったが、取り敢えず僕は自分を「きゃっかんし」することができていない事を学んだ。父に「きゃっかんし」の意味を尋ねたが、父は僕にはまだ分からないと言うだけだった。
僕がどうすれば葵の機嫌を戻すことができるかをじっくりと椅子に座って考えていると、突然病室のドアが開く。母が電話を終えたのだ。
母と父が再び話し合い、僕達は今日は家に帰ることになった。僕の頭の中では父との会話がずっと繰り返し再生されていたが、葵の機嫌を元に戻す方法は見当もつかなかった。
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