第2章 遍歴の鑑定士

 タクシーを降りて、煉瓦色のビルに入る。受付に、中学生くらいの少女が座っていた。いや、日本人だから若く見えるだけで、きっと20歳を超えているのだろうと、ブルーノは信じることにした。

「ヴィルコメン」

 驚いたことに、その受付嬢が片言のドイツ語で挨拶してきた。ただし、硬い表情で。エリーゼが予約すると言っていたから、その時にドイツ人だと知らせておいたのだろうか。

「ブルーノ・クラム、です」

 こちらも片言(日本人に聞き取りやすいような発音)で言い、相手の動きを待つ。受付嬢はPCを操作してから、紙を差し出してきた。全て日本語で書かれているようだが、これは相手の覚書のようなものであるから心配ない。

「ビッテ・ゲーエン・ジー・イン・デン・フィア・シュトック」

 手元のメモをちらちらと見ながら受付嬢が言う。「4階へ行ってください」というドイツ語。もしかしたら、ドイツ語以外に各国語のメモが用意されているのかもしれない。

「ありがと、ございます」

 礼を言っても受付嬢は硬い表情で軽く頭を下げるだけだったが、ブルーノがエレベーターに乗ると、小さなため息が聞こえた。外国人を相手に、緊張していたのだろうか。大袈裟な。

 4階に上がると、すぐ近くのドアが開いていて、そこにサングラスをかけた男が立っていた。彼も若く見えるが、受付嬢ほどではない。しかし20歳を超えていると聞いている。

「ヴィルコメン、ヘル・ブルーノ・クラム」

 今度は自然なドイツ語だった。部屋に入り、ソファーを勧められる。探偵事務所と違って、こちらは簡素で物が少なかった。ワビあるいはサビというものだろうかとブルーノは感じたが、もしかしたら全く的外れな感想かもしれない。

「鑑識対象は勲章、項目は傷と匂いと聞いています」

 相手が言った。標準ドイツ語だ。エリーゼのはわずかに訛っていたことを、ブルーノは改めて気付いた。南部の、ヴュルテンベルクのものだったろうか?

「そのとおり。正直に言うが、私が考えた項目ではないんだ。それで何がわかるのかというのも、理解していない」

「こちらも、見てみないことには何とも言えない」

 無表情でこんなことを言われて、ブルーノは本当にここへ来てよかったのかと心配になった。無駄な金を使わされるのではないだろうか?

「料金はいくら?」

「それも見てみないことにはわからない」

「それじゃあ依頼できないよ。どういうことなのか、私にはさっぱりわからない」

「鑑識できればその件数に対して料金が決まる。1件千円。およそ7.5ユーロ。傷と匂いを調べるのだから、おそらく2千円。しかし多種類の傷、多種類の匂いを検出したときには、その分増える」

「目立った傷はないし、匂いなんて付いてないはずなんだ。もし何もわからなかったら?」

「無料」

「こちらがわからないからといって、いろんな物を検出したと主張するんじゃないだろうね?」

「上限を決めることができる。重要なものから鑑識する」

「三つまで、としたら?」

「それに従うだけ」

 何の参考にもならない結果が出たら、エリーゼへの依頼料から差し引こうとブルーノは考えた。そういえば彼女に前金を払うことになっていたはずだが、まだ渡していない。

 ブルーノはバッグからケースを取り出し、応接テーブルに置いた。開けて、中の勲章を見せる。相手はどこから取り出してきたのか、白い手袋をはめたが、ケースを手元に引き寄せただけで、勲章に触ろうとはしなかった。

「プロイセンの黒鷲勲章ですか。昨年、ライプツィヒ博物館から盗まれたものですね」

「まさか……」

 ブルーノは愕然とした。黒鷲勲章は407個が授与された。もちろんそのうちのいくつかは叙勲者の死後、博物館に寄贈され、展示されている。これがライプツィヒ博物館に展示されていたものと、なぜ判るのか。

 確かに盗難に遭ったことは聞き及んでいるが、ドイツ国内のニュースにしかならなかったはず。ともあれ、これが本当に盗難品なら、やはりイレーヌが盗品売買に関わっていることになるのか……

「何か特徴があるのか?」

「博物館に寄贈されたとき、真贋の鑑定が行われたが、その結果を聞いて知っている。向かって右のエッケの先端部に、左上から右下に向かう小さな引っ掻き傷が付いているのと、中央の黒鷲の表面にあるW字のような特徴的なかすり傷と……」

「あっ……」

 勲章の鑑定、という言葉に、ブルーノは思い当たることがあった。貴重品・希少品の鑑定は、特殊な専門家に頼むことがあるからだ。

 ヨーロッパ各地を飛び回る凄腕の鑑定士グータハター。その男は“視覚”だけで鑑定するのではなく、味覚、聴覚、嗅覚、触覚の全てに優れていて、あらゆる物を鑑定する。

 個人だけでなく、企業や公的機関も鑑定を依頼する。政府機関すらも彼を利用することがあったので、外務省の関係者は常に彼の所在を把握していた。

 ブルーノは彼の本名を知らないが、コードネームは“海鷲ゼーアドラー”。日本人で、50歳前後。そしてつい数年前まで、彼の弟子(あるいは息子とも言われる)がロンドンで鑑定事務所を開いていた。ところがその弟子は、ある事件の鑑定をきっかけにして、悪漢の襲撃に遭い、行方不明になっているらしいと……

 弟子のコードネームは“わし座アクヴィラ”。ラテン読みならアクィラだ。そして目の前にいる“鑑識”の名は、確かアキラ・ワタリ……

「じゃあ君は、あの鑑定士“海鷲ゼーアドラー”の……」

「情報提供を受けている。ご存じなら、その信用度まで言う必要はないでしょう」

「いや、そうではなくて。ええと、彼の弟子の……」

「無関係です」

 投げやりな言い方だったが、「それには触れるな」という無言の圧力を感じて、ブルーノは口を閉じた。自分より10年以上も若い男から、こんな威圧感を与えられるとは。

 しかし、もう一つ思い出したことがあって、“わし座アクヴィラ”には同年代の女性パートナーがいたはず。ドイツ人と聞いたような気がする。するとそれは……?

「見かけでわかる他の特徴としては、型を取ったこと。周囲に、おそらく鉄筆と思われる物をあてがった跡がある。しかしかなり古い傷で、錆の状態から見て50年以上前。匂いは……4711ジーベンウントフィアツィヒエルフ。まずはこの三つでどうか」

「4711、というと、オーデコロンの?」

「そう」

 ドイツのモイラー・アンド・ヴィルツ社が1792年に製造した、現存する世界最古のオーデコロン。4711とは、会社があったケルンの地番に由来する。

 そしてそれをよく着けている人物を、ブルーノは一人だけ知っていた。しかし、触ったときに匂いが移っただけとも考えられる。そんなことまで、調べてくれるのだろうか……

 ブルーノが考えごとをしている間に、鑑定士は手元の紙に鑑識結果を書いていた。ドイツ語の、筆記体だ。ブルーノは学校で習ったが、それは過去の文献を読むためで、書いたことはほとんどなかった。

「以上でいいなら、鑑定料は3千円」

「他に何かわかりそうなことは?」

 ブルーノはすっかり気を取り直していた。彼が“わし座アクヴィラ”であるなら、その鑑定結果は信用に値する。完璧といってもいいはずなのだ。であれば、もっと何か取り出せるのではないだろうか?

「これに触った数人の人物の匂いを嗅ぎ分けることくらいはできるが、その人物が触った他のものか、あるいは本人を連れてくることができないと、ほとんど役に立たない」

「もちろん、今持ってくるとか、連れてくることはできないが、数日後でもそれは可能?」

「保存状態がよければ3ヶ月くらいは」

「それは例えば密封するとか?」

「匂いの弱い材質のものを使ってもらう必要がある」

「対処しよう。もしかしたら、後日、再鑑定を依頼するかもしれない」

「そうですか」

「では、3千円」

 ブルーノは財布から千円札を3枚取り出して、テーブルに置いた。鑑定士からは、鑑識結果を書いた紙と、領収書が差し出された。領収書もドイツ語だった。但し書きは「勲章の傷及び匂い鑑識料として」。

 ただ、これはどこへも出すつもりはない。ブルーノの私費だ。探偵への依頼料もそうだが……

どうもありがとうフィーレン・ダンク

お気をつけてマッハス・グート

 ブルーノは多少興奮気味で事務所を出た。受付嬢が頭を下げていたようだが、ほとんど目に入らなかった。

 ビルの近くの歩道橋に上がり、駅まで早足で歩く。長い歩道橋で、400メートルもあった。駅と周辺のマンションをつないでいるらしい。

 改札の前に着くと、エリーゼが待っていた。探偵事務所で見た姿に、服と同じ色の中折れ帽子を被っている。

「結果はいくつ出ましたか」

「三つだ。三千円」

「何か役に立ちそうなものは?」

「それは私にはわからない。それより、聞いてくれ。鑑識事務所に、数年前ロンドンで鑑定士をしていた“わし座アクヴィラ”がいたんだ! 君ももちろん知っていたんだろう? それで、私が思うに……」

「領事に限らず、外交に関わる仕事に携わる人は、口が硬くないといけないのでしょうね」

 ブルーノの言葉を遮るようにして、エリーゼが言った。口元には笑みが浮かんでいたが、目は細められ、鋭い光を宿している。ブルーノは思わず言葉を呑んだ。あの鑑定士と、同じ威圧感だ! エリーゼもそれ以上口を開かず、ブルーノを見つめていた。

 数秒経って、ようやくブルーノは話すことができるようになった。

「アー、そのナ・ヤー……大変失礼した。私は別に、口が軽いわけではなく、ちょっと驚いて動転しただけで……」

「外交では何が起こるかわかりません。常に不測の事態に対処できるよう、落ち着いて行動されたらよいでしょう。私はそれができなくて、とても大きな後悔をしたことがあるのですよ。さて、これから堺へ行きます。住之江公園までの切符を買って下さい」

「スミノエコーエン……」

 改札口の横に、自動券売機がある。料金地図の左下の方、と言われて探し、切符を買った。普段は梅田の総領事館の周辺だけで、仕事も生活も完結するので、鉄道には乗り慣れていないのだ。

 駅へ入り、ゴムタイヤで走る“新交通”の車内で、ブルーノはエリーゼに鑑定結果を見せた。

「盗品でしたか」

「それについては念のためこちらで確認する」

「型を取ったというのは、興味深いですね。何のためでしょう? とにかく調べることですね」

「それより、4711だよ。これはイレーヌ……スミ一等書記官がよく使っているオーデコロンだ。しかし、おそらくは彼女が触れたときに付いただけで……」

「いいえ、彼女が最近使っているのは4711ポルトゥガルです。日本の販売代理店が、4711オーデコロンを元に作った、独自銘柄です。ドイツと日本を結びたいという彼女の性格が表れているではありませんか」

「鑑定士はポルトゥガルと言うのを省略したのかもしれないよ」

「そんなはずがあるものですか。アキラ様はそんな曖昧な鑑定結果は出しません。私の首を賭けても結構です。要するに、最近この勲章に触れた人物が、アイリちゃん以外にもう一人いるということですよ」

「黒鷲団の誰かか、あるいはそれを送付した人物か……」

「もう一人、可能性がありますが、まだ何の証拠もないことですから、心に留めておくだけにしましょう」

 エリーゼはそれきり黙ってしまった。

 新交通の車両は、ちょこまかとよく曲がる。こんな小さくて狭い公共交通機関は、日本独自のものだなとブルーノは思った。ドイツなら、空港内の「ピープルムーバー」くらいしか思い付かない。


(続く)

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