第3章 薬屋と大使館 (前編)

 翌日も夕方に事務所へ行くのかと思ったら、朝にエリーゼから電話がかかってきて、梅田スカイビルの下のレストランへ、午後3時に行くことになった。

 梅田スカイビルの地下1階は、昭和初期の町並みを再現した飲食店街になっていて、“滝見小路”という名が付いている。ただし、待ち合わせ場所になったのはチェーンストアの喫茶店で、店内に昭和の雰囲気はかけらもない。約束の時間にすみれがそこへ行くと、エリーゼは既に席に座っていた。

「グーテン・ターク、スミレ様。お越しいただいてありがとうございます。今日はまず解決への第一歩ですよ」

「まだ全部がわかっていないということですか? ところで、どうしてここに呼び出されたのでしょう。誰かに会わせていただけるのでしょうか。エミル・オートさんの子孫とか……」

「100年前の人物ですから、子孫を見つけるのはなかなか難しいですね。しかし、仕事上の関係者なら簡単に見つかったのです。先に説明してしまいますと、ヘル・エミル・オートは100年前に神戸にあったドイツ・ソーリョージ館のソーリョージを務めた人なのです。そして私たちがこれから会うのは、現在の大阪・神戸ドイツソーリョージ館文化部のゼクレテール、つまり書記官です」

「まあ、総領事だったのですか。では、あの金屏風は、エミル・オートさん個人ではなく、日本とドイツの友好の証として贈られたとか、そういうものなのですね」

 すみれが留学していたときには、現地の日本大使館のお世話になったことが何度かあるので、エリーゼが言おうとしていることがだいたい飲み込めた。文化部は両国の文化交流を支援する部署で、文化にはもちろん美術が含まれる。そして総領事は外交は行わず、むしろ通商、経済、文化における交流を促進する役割のトップであって、言わば派遣国の“シンボル”のような存在である。

「それは書記官に調べてもらっているのです。私はドイツ人で、ソーリョージ館には何度も出入りしているものですから、何人も知り合いがいるのですよ。その中にとてもお優しい方が一人いるのです。ところで、ソーリョージ館はどこにあるかご存じですか?」

「いえ、存じません。でも、きっとこの近くなのですね」

「この建物の上です。梅田スカイビルの35階にあるのですよ」

「ああ! だからここが待ち合わせ場所だったのですね。気付きませんでした」

「上がるととても見晴らしがいいのです。おや、書記官がいらっしゃいましたよ。文化交流ですから、立って挨拶することにしましょう」

 エリーゼに続いてすみれも立つ。エリーゼの視線を追うと、眼鏡の美人がこっちに来るのが見えた。細かいウェーブのかかった黒髪をアップにして後ろでまとめ、前髪にもウェーブをかけて分けている。30代後半だろうか。背が高く、プロポーションもよい。しかし、顔はどう見ても日本人……

「グーテン・ターク、リースヒェン。そしてこんにちは、あなたが梅村すみれ様でいらっしゃいますか。大阪・神戸ドイツ連邦共和国総領事館、文化部一等書記官のイレーネ・スミです。初めまして」

 にっこりと笑って手を差し出してきたので、すみれはその手を握り返したが、その女性の言葉は完全な日本語だった。微妙にイントネーションがぶれるエリーゼの比ではない。すみれはドイツ語をほんの少し話せる程度だったのだが、話さずに済んだという思いより、なぜこの人は外見から中身まで日本人らしいのかという思いの方が強かった。

「初めまして、梅村すみれでございます。本日はお忙しいところをお目通りいただき、大変光栄に存じます……ですが、あなたはドイツの書記官なのに日本人なのですか?」

「いいえ、ドイツ人ですよ。両親は日本人でしたけれど、私はドイツで生まれてドイツ国籍を持っているので、正真正銘のドイツ人です。名刺をどうぞ」

 受け取った名刺は表がドイツ語、裏が日本語だった。それによるとドイツ語での名前は"Irene SUMI"、日本語の名前が“鷲見すみイレーネあい”。日本語の方だけ名前が長い。英語圏だと"Irene"は「アイリーン」とから、それを“あい”とニックネームのように使っているのだろう。すみれも名刺を渡すが、日本語のものしかない。「もちろん日本語も読めますから」とイレーネが微笑む。

「ではまず、お互いに何と呼び合うかを決めようではありませんか」

 ソファーに座り、飲み物を注文した後でエリーゼが言った。

「またそこからなの? あなたはいつもそれね」

 イレーヌの言葉遣いがぞんざいになった。エリーゼ相手ではそうなるらしい。

「とても大事なことですよ。私はいつもどおりアイリちゃんとお呼びするので、エリちゃんと呼んでくださいますか」

「いいえ、リースヒェンにするわ。その方が可愛いもの」

「お願いですからエリちゃんと。そうしないとスミレ様が混乱してしまいます」

「あの、私は別にどちらでも結構ですが……」

 リースヒェンはおそらくエリーゼの愛称だろう。そのエリーゼもエリザベータの愛称のはず……というのがすみれの持っている知識だった。

「あら、お気遣いありがとうございます。でも、お話の中で名前を呼ぶことなんてそうはありませんから、あまり気にすることじゃありませんわ。私は梅村様とお呼びしますが、私のことは鷲見でもイレーネでも愛理でもお好きにどうぞ」

「スミとスミレだとややこしいのです。スミレ様もアイリちゃんとお呼びすればよいと思いますよ」

「この歳でちゃん付けなんて似合わないから、せめて愛理さんにして欲しいわ」

「え、でも……」

 すみれは一瞬戸惑った。似合わないことはない、と思ってしまったから。

「はい?」

「いえ、何でもありません。では、鷲見様とお呼びします」

 この歳で、とイレーネは言った。すみれから見てイレーネは少し年上、30代後半くらいに見えたのだが、実はもっと上、40代なのだろうか。もちろん、歳のことを話題にしてはならないので、聞こうとも思わないが。

「私だけが仲間はずれですね。カイン・プロブレム。では、アイリちゃんに調べていただいた結果を伺う前に、今回の依頼の内容から説明しましょうか」

 屏風の件は、マイセンの皿や桑名の件とつながっているので、エリーゼがどこまで遡るつもりなのかとすみれは思ったのだが、桑名の件には触れず、皿の件を適当にぼかした上で、屏風の来歴を調べる調査をすみれが依頼したことから説明が始まった。

 暗号の件もさらりと流し、屏風がエミル・オートに贈られたものらしいことと、それを描いたのが神坂雪佳、あるいはその教え子である雪菊であろうということをイレーネに語った。

「さて、セッキクという人が、もしかしたらスミレ様のご先祖のどなたかではないか、を調べることをお願いしていましたが、いかがでしたでしょうか?」

 昨日の暗号解読の後でエリーゼから依頼された。元絵をエミル・オートへ贈る前に、すみれの先祖の誰かがそれを模写し、それが雪菊だったのではないか、というエリーゼの推理に基づいている。

「祖母の実家である益倉ますくら家に伝わっていた屏風でしたので、その家系を調べてきました。そうしたら、5代前に益倉菊乃という人がいて、彼女が雪菊という号を使っていた可能性があります」

 すみれは用意してきた概略の家系図を示した。


  益倉家  :     :

   菊乃  ├─桃乃  ├─萩乃  :

    ├──┘  ├──┘  ├──┴─藤乃    さくら(旧姓取手)

    男     男     男     ├──┐  ├──すみれ

                   将兵  ├─総司

                  梅村家 :


「おそらくということは、記録が残っていなかったのですか」

「はい。ですが、祖母に聞いたところ、益倉は古くから続く薬問屋で、芸術家の後見……パトロンをしながら、娘をそこへ習いに行かせていたとのことでした。和歌や俳句、絵画、お花、書などです。祖母は俳諧、曾祖母はお花で、二人とも名前の一字を号に使っていました。ですから、益倉菊乃が雪佳に習っていたのなら、雪菊という号を使うだろうと考えられます」

「セッキクの絵は他になかったのですか」

「昨日の夜に、蔵の中を調べてみたのですが、他にはなさそうでした。蔵ではなく家に保管していたものは、戦争の時に焼けたということでしたから、絵も焼けて残っていないのかもしれません」

「それは残念なこと。しかし、可能性はあるのですね。ところで、私は全ての漢字が読めるわけではありませんが、ここに名前の載っている女の人は花の名前が多いですね」

「ええ、益倉家の娘は花や樹木から名前から付けるという風習があったそうです。それと商家でしたから、長女に婿を取って店を継いでいました。祖母の代で梅村の籍に入って、益倉の家名はなくなりましたが、名前の風習は私まで続いています……母がさくらなのは偶然ですけれど」

「素晴らしい。では、次にアイリちゃんの調査結果をお聞かせ下さいますか」

 エリーゼに促されると、イレーネは携えてきたクリアファイルから紙を取り出しながら言った。

「結論から言うと、こちらの方に公式の記録は残っていませんでした。エミル・オートが総領事だった頃の総領事館は神戸にあったのですが、そこもやはり戦争で空襲を受けて、焼けてしまったんですよ」

「そうでしたか。私の推理が証明されず、とても残念です」

 つまり資料と共に、神坂雪佳の金屏風も焼けてしまったのだろう。確かに残念なことだ。残っていれば博物館入りしてもおかしくない品に違いないのに。


(続く)

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