第2章 探偵と矢車菊 (後編)
エリーゼは気持ちを落ち着けるかのように大きく一呼吸してから、話し始めた。
「先日、依頼をお受けしたときに、私が何と言ったか憶えておられますか。調べることを三つに分けました。そのうちの第一のものだけ思い出していただければよいのです」
「確か、元になった絵は何のために描かれたか、でしたね?」
「そうです。それなのに、私は絵が暗号であるという考えに集中してしまい、そのことを考えるのをやめてしまっていました。何と恥ずかしいことでしょう! 自分で言ったことを考えなかったのです。しかし、それはとても大事なことなのでした。何のために描かれた絵か。それが理解できていないと、手がかりを見失うのです。では、屏風の絵は何のために描かれるのですか?」
いきなり哲学の問答のようになった。驚いたが、すみれは留学したときにディベートを習ったことがあったので、考えながら答えてみた。
「それは……屏風絵は芸術ですから、芸術として描くのですね」
「それが一つですね。しかし、それだけではないはずです」
「画家はお金を稼がないといけないから、売り物として描くこともあるでしょう」
「素晴らしい。それも一つです。しかし、他にもあるでしょう。先に言っておきますが、趣味として描くというのは答えではありませんよ」
「他にもですか。他には……」
どんなときに描くことがあるだろう。趣味ではない、自分のためではないとしたら、それは他人のためだ。それが売るためではないとしたら……
「……誰かにプレゼントするためですか?」
「ヴンダーバー、素晴らしい! そのとおり、誰かに贈るためです。誕生日に贈ることもあれば、記念日に贈ることもあるでしょう。好きな人に贈ることもあれば、支援したい団体に寄付するかもしれません。では、ヤグルマギクは、誰へ贈るために描いたのでしょうか?」
「それは、矢車菊が好きな人に……」
「そうかもしれません。ヤグルマギクについては昨日少し調べたのですが、日本ではメージ時代から栽培されるようになったということでした。150年くらい前ですか? それに、日本には昔からヤグルマソーというのがあって、それとよく間違うことがある、ということでした。絵の中の花は、間違いなくヤグルマギクです。しかし、それは100年ほど前に描かれたものです! その頃の日本で、ヤグルマギクが好きな人が、どれくらいいたでしょうか? まだほとんどの日本人が知らなかったと思われるのに」
「あっ……じゃあ、これは日本人が描いたものではないということですか? 金屏風なのに?」
「いいえ、日本人が描いたのですよ。カミサカ・セッカです。そしてセッキクが写したのです。それは疑いありません。しかし、それを外国人へ贈るために描いたものだとしたら、どうでしょうか?」
それでもやはり「金屏風なのに」とは思えるが、日本らしいものを外国人に贈ることはよくあったに違いない。黒船で来たペリーに、徳川家が日本の銀の
「では、その外国人が、矢車菊が好きだったということですか。でも、それだけでどういう手がかりになるでしょう?」
「ヤグルマギクはヨーロッパでは昔からよく見られる花です。古い食器のデザインに使われていたこともあります。フィンセント・ファン・ゴッホが描いたこともあるはずですよ。そして特に我が祖国ドイツでは、国のズィンボールの一つなのですよ。おや、ズィンボールはドイツ語でしたかね。日本語ではショーチョーでしたか?」
「シンボルですね」
「それは英語でしょう。ゾヴィゾー、ヤグルマギクはドイツ人が大好きな花だということです」
「では、ドイツ人のために屏風絵を描いた……」
「私は報告書の"
まるで渡利の慧眼を讃えるかのような言い方だった。確かに、その可能性を見抜いていなければ、報告書にドイツ語を書いたりしないだろう。すみれは床から報告書を拾い上げて見直したが、書かれていたドイツ語は"Kornblume"だけ。その単語は、以前エリーゼが言ったことがあるので、すみれは何の気なく読み飛ばしていたのだった。しかし、なぜ渡利はドイツの可能性を考えたのか……
「でも、他の国でも矢車菊を象徴にするところがあるのでは?」
「おっしゃるとおりです。私の記憶では、フランスもそうだったと思います。しかし、この暗号はフランス語には当てはまらないのですよ。ドイツ語なら当てはまる。そこが大事な点なのです」
エリーゼは“紙の屏風”をすみれに示した。そこには数字が書かれている。「6 14 10 13」と「16 9 20 23」。
「ここにアルファベットを当てはめていきましょう。もちろん、1が
6 14 10 13 16 9 20 23
F N J M P I T W
「やはり何も意味がない。そう思うでしょう? しかし、それは英語のアルファベットだからです。ドイツ語のアルファベットをご存じですか。ウムラウトと呼ばれる記号が付く三つの文字と、エスツェットという文字があるのです。つまり、全部で30文字です。数えやすいように、五つごとに分けて書いてみましょう」
A B C D E / F G H I J / K L M N O / P Q R S T / U V W X Y / Z Ä Ö Ü ß
「エスツェットは昔は小文字しかなかったのですが、最近になって大文字が作られたのです。ゾーヴィゾー、それはここではどうでもいいので省略しましょう。さて、こうして並べると普通のアルファベットと同じです。これでは先ほどの暗号は解けません。しかしこれらを、辞書で使われる順番に並べたらどうでしょうか。辞書ではウムラウト付きの文字は、付かないものと同じかその後に並べられ、エスツェットは二つのSとして扱われます。そのとおりに並べ替えてみましょう」
A Ä B C D / E F G H I / J K L M N / O Ö P Q R / S ß T U Ü / V W X Y Z
「ドイツ語を暗号として使うにはこうして並べ替えて使うのがよいでしょう。普通のアルファベットと同じ並びにしておくと、すぐに見破られてしまいますからね。さて、この順番に従って、当てはめていきましょう」
6 14 10 13 16 9 20 23
E M I L O H R T
「どうでしょう? 先ほどよりは読めるようになったではありませんか。最初の4文字は『エミル』。これはドイツ人らしい名前ですね。次の4文字は『オート』。そういう名字がドイツにはあるのです。つまり、これは『エミル・オート』という名前を示す暗号だったのです。一方、フランス語ではどうですか。アクサン符号の付く文字が、ドイツ語よりもたくさんあって、きっと解読に失敗するでしょう。では、その他の国の言葉は? 思い出していただきたいのですが、100年前の屏風の暗号です。その頃、日本に住んでいる外国人がどれくらいいたでしょう? 今よりもずっと限られていたはずです。そしておそらくは住むところも限られていて……何というのですか、神戸や横浜にあったはずですが」
「ああ、外国人居留地ですね」
「キョリューチでしたか。そこと、周辺にしか住んでいなかったでしょう。ドイツはその中に含まれていたはずです。そして、この暗号がドイツ語であるという証拠がもう一つあるのです。確か、余分なヤグルマギクがあるのでしたね」
報告書の2枚目にそれが描かれている。右端が3本、その隣が2本、その他は1本だった。
「これを引いた数を並べてみましょうか。そして、普通のアルファベットを使ってこれを解くのです」
5 13 9 12 15 8 18 20
E M I L O H R T
「どうです。同じになったでしょう」
「すごい……」
すみれは心の底から感心していた。暗号がドイツ語であるとわかっただけで、これほど鮮やかに解き明かせるとは。
「そして、余分なヤグルマギクが描かれた理由もこれでわかりました。屏風を描いたのはセッカですが、暗号は他の人が考えたに違いありません。屏風を贈ることを決めた人でしょう。そのために、最初普通のアルファベットを数字に変換して「5 13 9 12…」という数でヤグルマギクを描くことを、セッカに依頼したのです。後になって、ドイツ語には特別なアルファベットがあることに気付いた。これでは読み間違われるかもしれない。それで描き足してもらい、「6 14 10 13…」としたのです」
「なるほど、だからバランスが悪くなったのですね」
「そうです。しかしドイツでは、特殊文字が使えないときは代わりの書き方があるのです。ウムラウトはそれぞれAE、OE、UE、エスツェットならSSとするのですね。暗号を作ったのが日本人だったので、それを知らなかったのでしょう。そのために、ちょっと複雑な暗号になってしまったのです」
「すごいです……さっき歩きながら考えていた、あの時間でここまで思い付いたのですか?」
すみれが訊くと、エリーゼは上機嫌な笑顔の唇の端をちょっと歪ませながら答えた。
「どんな名前が出てくるかまでは想像していませんでしたが、この解き方でわかるはず、というところまでですね。後はこうしてスミレ様に説明しながら確認していたのです。これで名前らしいものが出て来なかったら、恥の重ね塗りになるところでしたよ」
恥の上塗り、のことだと思われるが、指摘しないでおこうとすみれは思った。そんなつまらない突っ込みを、この場で入れるのはもったいない。
「さて、今のところわかったのは屏風に隠されていた名前だけです。後はこの人物が何者かを調べる時間が必要です。先ほど言ったとおり、100年前に日本に住んでいたドイツ人で、しかも立派な金屏風を贈られそうな人など限られているはずです。あと一日だけ、お時間をいただけますでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします!」
すみれはソファーに座ったまま頭を深く下げた。一日待つくらいは何でもない。それに、わざわざ鑑識報告書を持って来た甲斐があったというものだ。
(続く)
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