第4章 木曜日 (前編)

 エリさんに電話をしたら、また法律事務所の受付をして欲しいと頼まれた。でも今日は5時まででいいらしい。鳩村さんに急用ができたからって。子供は成人してると思われる年齢に見えるのに、一体何の急用があるんかと思う。

 4時少し前に着いたら、鳩村さんはめっちゃ安心した顔をした。

「ああ、よかった、れいちゃん来てくれはったわ。ごめんなあ、急に来てもろて。今日は鑑識の渡利さんの方にちょっと重要な依頼が入ってて、その間に他のお客さんが飛び入りで来たら、あんじょう言うて待っといてもらわなあかんのよ。弁護士さんの方は、昨日と同じで普通に受け付けてくれはったらええから」

「わかりました」

 私と入れ替わるようにして鳩村さんが立つ。弁護士事務所の方に入って行ったけど、たぶん天川先生に帰りの挨拶をするんやろう。私が来たことも言うのに違いない。すぐに出てきて、「ほんなら、あとお願いな」と言った後で、嬉しそうーな顔をしながら、こそっと囁いてきた。

「すごい有名人来るから、ついでにサインもろといたらええわ」

「はあ」

 鳩村さんは手を振りながら出て行った。私は一礼して見送る。有名人って、誰やろ。お笑い芸人? 私、お笑いはそんなに好きとちゃうんやけど。

 PCの予定表を見る。4時半に「特」という予約が入っている。名前は秘密なんか。匿名で、俳優か女優が変装して来るとか? 弁護士の方の予定は……同じような時間にお客さんは来ないことになってる。わざと空けてあるんかな。

 すぐに弁護士関係のお客さんが来て、4時10分にも来て、その後はしばらく空白。昨日と同じく、宿題をやる。数学だと途中に誰か来て思考が途切れるとめんどいので、化学の有機にしておく。質量の計算くらいやったら、中断してもたいしたことない。

 4時25分、自動ドアが開いて、お客さんが到着。お笑い芸人……ではない、背が高い、けどスリムな女の人。ベリーショートの黒い髪。ダークスーツで、アンダーは濃紺のスクエアネックシャツ。濃い色のサングラスをしてるけど、どこかで見たような形。「いらっしゃいませ」と挨拶する。

 女の人は口を開きかけたけど、何も言わなかった。私の様子を窺ってるんか。見慣れへんのがいてるな、と思われてるんかも。いったん口を閉じて、3秒くらい黙ってから言った。

「4時半に、鑑識の予約を入れている者です」

 女の人にしては低めの声。元宝塚の、男役みたいな感じ? ドラマはたまに見るくらいだけど、そういうイメージ。

「はい、承っています。えーと……」

 予約があるなら、受付票があるはず。鳩村さん、なんで申し送りしてくれへんかったんやろ。そんなに急いでたんかな。どこ? あ、あったあった、マニュアルのカードケースの中に入ってた。えーと、名前は「羽生はぶれい」。え、どっかで見たことある名前? 取り出すのに手間取ってたら、女の人が話しかけてきた。

「君、初めて見る顔ですね。鳩村さんはどうしたんです?」

 あ、やっぱり見慣れへんって思われてたんや。でも、めっちゃええ声。女の人の声やのに、なんでこんなに痺れるんやろ。やっぱり女優さんやったかなあ? でも最近のドラマ見てへんから。

「鳩村さんは、今日は急用が入ったので、代わりに来ました。受付票をどうぞ。これを持って、4階へ……」

「ありがとう」

 羽生さんはお礼を言ってくれたけど、すぐには受付票を受け取らず、サングラスを外して、スーツの内ポケットに入れた。切れ長の目で、素顔はめっちゃ美人。サングラスしてても、美人さがにじみ出してきてたけど、その予想以上。私、普段は女の人の顔なんかそんなにじっくり観察せえへんのに、何でこの人だけこんなに見てしまうんやろ。

 そして羽生さんは、滑らかな手つきですっと受付票を受け取って、軽く微笑んだ。その時、急に思い出した。この人、確か書道家やん! 京都に住んでて、個展とかやってて、前にテレビで特集やってたんやなかったっけ。そうかあ、確かに有名人やわ。

 羽生さんは笑顔のまま振り返ると、エレベーターに乗っていってしまった。サインくださいって言うタイミング逃したなあ。まあ絶対欲しいっていうわけやないからええけど。

 その後も、宿題をしながらお客さんを捌く。5時が近付いてきて、今日は勝手に帰ってええんかな、と思ってたら、予定にないお客さんがきた。猿木刑事……じゃなくて、門木刑事さん。

「予約はないけど、渡利所長に面会お願いします。臨海署の門木」

 昨日と全く同じことを言う。警察手帳の見せ方も同じ。でもマニュアルによれば、「重要依頼者が来訪中には、4階に誰も入れないこと」とある。そのために私が呼ばれたんやから、忠実に実行せなあかん。

「ただいま、前の依頼人と面会中ですので、少々お待ちください」

 まず、マニュアルに書いてあるとおりに言う。次に、PCの通知欄に「門木さん」と入れて通知ボタンを押す。5秒も経たないうちに、ボタンの上に「6時に出直し」と表示された。こんな機能あったんや、知らんかった。

「えーと、申し訳ありませんけど、前の依頼が長引きますので、6時に出直していただけますか」

 これもマニュアルどおりの答え方。門木さんが猿のように驚く。

「6時!? そんなにようけ詰まってんの?」

「いえ、1件だけですけど」

「1件で6時まで?」

「はあ」

 驚かれても、私は答えようがない。マニュアルに何も書いてないし。確かに、羽生さんは4時半に来たのに、1時間半もかかるのは長いように思う。私の時は5分くらいしかかからへんかった。渡利さんは何でもあっという間に鑑識してしまいそうな気がするんやけどなあ、よう知らんけど。

「しゃあない、出直してきますわ。まあ、すぐ近くやし」

「すいません、お願いします」

 マニュアルにないけど、一応謝っておいた。門木刑事さんはいったん帰りかけたけど、また私の方に向き直って言った。

「お父さんはまだ出張してはんの?」

「はい、週末に帰ってきます。……月曜日は、お手間を取らせて申し訳ありませんでした。ありがとうございました」

 気にして声をかけてくれたんやろうから、もう一度お礼を言っておく。あれ、でも、昨日は何も言わへんかったのに、なんで今日は声かけてきたんやろ。

「帰りは何も起こらんとええね。ほんなら、後で」

「はい、ありがとうございした」

 何て答えたらええのかようわからんかったから、とりあえずお礼を言っておいた。でも、何か含みのある言い方やったな、何やろ?

 それはともかく、羽生さんの依頼が6時までかかるんなら、他にも飛び入りが来たらブロックせなあかんから、私も6時までいた方がええんやろか。

 5時を過ぎても天川先生は出て来ず、誰も帰っていいと言ってくれない。気弱なので、もうしばらく待つことにする。宿題をしながら。おかげで化学は終わりそう。

 5時半になったら、エレベーターが動いて、羽生さんが降りてきた。サングラスをしていた。そのまま帰るのかと思ったら、私の方に寄ってきた。口元に、満足そうな笑みが浮かんでいる。鑑定で、何かええことあったんかな。

「君、麻生さん、もう帰っていいらしいですよ」

 ほんまええ声。でも、なんで私の名前知ってんの。鳩村さんが渡利さんに伝えて、渡利さんが羽生さんに言った?

「あ、ありがとうございます。えーと、でも、羽生さ……いえ、あなたをお見送りした後で、帰ります」

 予約表に名前を書いてないんやから、声に出して言うたらあかんのはわかってたんやけど、つい言ってしまった。言い直してももう遅いわっていうくらい、はっきりと。

「ありがとう。もしかして、私のことをご存じですか。でも、ここに来たことは、なるべく他の人に言わないでくれると助かります。絶対秘密というわけじゃないですけどね」

「わかりました。すいません」

「気にしないで。近くに住んでるんですか? 家まで送りましょうか」

「いえ、自転車で来てて、この後行くところもあるので、いいです」

「そうですか。では、ごきげんよう」

「はい、さようなら、お気を付けて」

 羽生さんは口元にかっこいい笑みを浮かべて、帰って行った。歩き姿が女優みたいに様になってる。姿が見えなくなった後で、私も立つ。天川所長は全然出てきはらへんけど、もう帰ろう。ていうか、エリさんのところへ行かんと。

 外へ出ると、ダークブルーのスポーツカー(たぶんフェラリーかランボルギーニ)が横の駐車場から出て来た。羽生さんが乗っているのがちらっと見えた。羽生さんはどうやら私に気付いて、左手を挙げたようなので、走り去る車のサイドミラーに向かってお辞儀を返しておいた。

 ……サインもらうの、忘れてたわ。まあええか。


(続く)

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