第2話 姉妹の指輪の謎
第1章 姉による鑑定依頼 (前編)
真希が南港へ来たのはもちろん初めてではなかった。南港には西日本地区の商品センターがある。日本有数の宝飾品販売会社“
しかし、真希がこの法律事務所へ来るのは初めてだった。会社の顧問弁護士である
煉瓦色の壁の、重厚な造りのビルの前で車を降り、運転手に適当なところで停めて待っているように言ってから、真希はビルに入った。中年の穏やかな顔つきの受付嬢が奥ゆかしく立ち上がって頭を下げ、挨拶をして、「天川先生がお待ちでございます」と品良く言った。真希は受付嬢にちらりと目をやっただけで、声もかけず、ドアをくぐった。
中では若い弁護士が待っていて、恭しく頭を下げ、「こちらです」と言って事務所の奥へ真希を案内した。一番奥のデスクに天川が座って、書き物をしていた。足音に気付いたらしく、おもむろに顔を上げると笑顔になり、立ち上がって真希を迎えた。この南港共同法律事務所の所長で、もう60歳に近く、髪は薄くなりかけているが、精力的な顔つきをしている。
「やあ、真希さん、わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「お久しぶりです、天川先生。ここには初めて伺いましたが、立派な事務所ですこと」
「まあ、大きさだけは取り柄ですな。
「ええ、アメリカの方の事業の立ち上げで忙しいものですから」
だからつい1ヶ月前までの数ヶ月間、父と共に出張し、ニューヨークやシカゴ、ダラス、ロサンゼルスなどを飛び回っていた。プロジェクトが軌道に乗ってきたため、真希だけが一時帰国したのだった。しばらくは副社長である母と共に会社――将来的には日本法人と呼ばれることになる――を切り盛りしなければならない。
「社長さんからもたびたびいい報告を伺っておりますよ。真希さんは向こうでどこかの支店を任される予定ですか?」
「さあ、そんな話は一切ありませんでしたけど。ところで、鑑別士の先生はどちらに?」
真希は辺りを見回したが、それらしい人はどこにもいなかった。今日、指輪の鑑別を依頼する予定になっているのに。
もちろん、
仕方なく、天川の紹介してくれた鑑別士に依頼することにしたが、本来ならそんなフリーランサーには頼りたくなかった。自社の問題を自社内の人材で解決できないなんて、一流企業と言えないではないか。
「上の階にいますよ。早速、行きましょう」
「ここに呼んでくださいませんか?」
そもそも、その男に鑑別を依頼するときに、梅田のオフィスに来てくれるよう言ったのに、「南港まで来てくれ」という返事だったのだ!
別に、近くだから出張費を払わないと言ったわけではない。往復にかかる時間への対価まで含めて、十分な謝礼をすると言ったのに。私がここまで来る時間を何だと思っているのかと、真希は言いたくなったくらいだった。それだけでも十分気に入らないのに、わざわざ部屋へ行くなんて!
代理を差し向けたかったが、鑑別を依頼する指輪は、真希の手元から離してはならないことになっている。だから渋々ここへ来たのだった。
「彼に鑑識を依頼するには一定のルールがありましてね。出張を依頼できるものと、そうでないものがあるんです。それに従えば、指輪は基本的に持ち込みなんです。なに、たかが4階まで行くだけです。うちの所員が鑑識を依頼するときも全部持ち込んでるんです。さあさあ」
天川が手を振って促しながら出口へ向かって歩き出したので、真希は仕方なくその後に続いた。しかし今、天川は何と言ったか? “出張”と言ったのではないだろうか。その男にとっては、4階から1階へ降りてくるのが出張なのだろうか!? 何だか愚弄されているような気がしてきた。
天川は受付嬢に「今から、いいだろうね?」と声をかけ、受付嬢が「所長さんはお待ちだそうです」と言うのを聞く前に、エレベーターのボタンを押した。かごは1階に停まっていたので、すぐに乗って、あっという間に4階に着いた。
廊下に出てみるとドアが開いている部屋が一つだけあって、そのドアの近くに、若い男が立っていた。その男を見て真希は、鑑別士の秘書か受付係だと思った。それにしてもボタンダウンシャツにチノパンとは何というラフな服装だろうか。およそ、客を迎える服装ではない。失礼にも程があるだろう。
天川がその男に「やあ、お世話になります」と言って入り口をくぐり、真希がその後に続いて入ると、男はドアを閉めた。中には他に誰もいなかった。
部屋にはデスクと書棚と応接セット。壁は抑えめの白一色でカーペットはグレーの無地。壁に絵が掛かっているでも、観葉植物の鉢が置いてあるでもない。シンプルというよりは、寒々しいとか味気ないといった雰囲気だった。全体が明るいだけが取り柄だろう。こんなところで働きたくないと思うほどだ。
「鑑別士の方はどちらです?」
天川にソファーを勧められて座り、向かいにさっきの男が座ったところで、真希は天川に尋ねた。受付嬢は待っていると言ったはずなのに。
そもそも、向かいの男は秘書だか受付係だか知らないが、なぜソファーに座っているのだろうか。早く鑑別士に取り次いで、その男が来るまで立って待っているのが礼儀だろう。
「彼が鑑別士ですよ。ここの所長の渡利
「彼が?」
目の前の男を指して天川が言ったので、真希は驚きというよりも失望の声をあげてしまった。こんな若い男が鑑別士? 名前は知られていないが関西で有数の目利きと聞いていたから、きっと天川と同じくらいのベテランだろうと思っていた。それなのに、自分よりも若く見えるではないか。二十歳そこそこだろう。十分な仕事ができるほどの鑑別士だとはとても信じられない。
「宝石付きの指輪が八つと聞いていましたが」
男が初めて声を発した。見かけのわりに低い声だった。だが、そんなことは鑑別の技量とは関係がない。
「お急ぎなら早くお出しになる方がいいでしょう」
「失礼ですが、どういう資格をお持ちなのです?」
あまりにも相手が信じられないので、真希は尋ねた。天川を疑うわけではないが、“自称鑑別士”では話にならない。
「
間髪を入れず相手が答えた。そしてテーブルの片隅に顔を向ける。そこにカードが2枚と名刺が1枚置いてある。
「資格証も置いていますので、ご覧になっていただければ」
「もう一つ伺いたいですが、私のことをご存じですか?」
鑑別士であれば、知っていて当然だろう、と真希は思った。もっとも、天川から聞いているには違いないが、本当に知っているとは思えない無礼な態度に見えた。そもそも、こちらが客だということを理解していないのではないか?
「知っています。番屋真希さんでしょう。ジュエリー“
「真希さん、渡利君の鑑別眼なら絶対安心です。間違いありませんよ」
最前からの無礼に輪を掛けたような渡利の答え方に真希はむっとしかけたが、天川が取りなすように言うので、仕方なく彼を仮に信用することにし、携えてきたアタッシェケースの中からリングケースを取り出した。
ケースは八つあり、色も8色に分かれている。どれも宝石の色と合わせてある。ルビー、サファイア、エメラルド、トパーズ、
「鑑別してくださいますか?」
「全部本物ですよ」
またしても渡利は間髪を入れず答えた。本当に確認したのだろうか、ルーペを覗きもしないで!
(続く)
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