第1章 香水鑑定 (後編)
鑑識の渡利はどこからか白い手袋を取り出してきて、それをはめてからおもむろに香水瓶を取り上げた。しかしすぐには香りを嗅がず、窓の方にかざして見ている。そしてしばらくそのまま動かない。香水瓶を鑑定するつもりかしら、と光子は心配になった。なぜなら、結局、瓶を顔に近づけないまま、テーブルの上に戻してしまったから。
「あの……わからなかったんですか?」
「いや、わかりました」
「はあ……えっ、そうなんですか?」
どこの香水店に行っても、
さらに光子が不思議に思ったのは、彼の表情が少し不機嫌そうに見えたことだ。まるで「納得いかない」とでも言いたげな顔だった。しかし、テーブルの隅に置いていたメモ用紙を取り上げ、そこにさらさらと文字を書いていった。書き終わると顔を上げたが、光子の方を見ているような、見ていないような視線だった。
「これは二つの香水が混ざっています」
ああ、それで……と光子はようやく納得がいった。いくつかの香水店では、「知っている香水に近い香りがするけれども、少し違う」と言われたことがあるのだ。結局、銘柄がわからなかったので、どこの香水店で言われたかも憶えてないが、おそらくそのうちの二つが混ざっていたのに違いない……
が、この人は、なぜでそれがわかったのだろう。そもそも、いつ香りを嗅いだのだろう。香水瓶を、手で持ってただけなのに。本当にわかったのだろうか?
「あの、それで、何と何が?」
光子が訊くと、渡利はメモ用紙の上下を反転させて、光子の方へ突き出してきた。上辺に「鑑定結果報告書」とあり、その右下に日付、そして「記」として「下記の通り鑑識したので結果を報告する」。結果はその下に書かれていた。
『CHANEL No 19, GUERLAIN SAMSARA, 1:1』
きれいなブロック体の字だった。前の方はわかったが、後ろの方はわからなかった。
「シャネルの19番と……もう一つは何て読むんですか?」
「ゲラン、サムサラ」
ゲランは聞いたことがあるが、サムサラという銘柄は知らなかった。
「その後ろは、1対1ということですか?」
「そう。0.2パーセントくらいの誤差はあるかもしれませんが」
その誤差の根拠がよくわからないが、光子は信用することにした。ただ、不可解なこともあるにはある。
「あの……そうすると、この香水には価値はないんですか?」
「ないでしょう。混ざったものは分離のしようがないし、たとえできたとしても、新品ではないのだから、買い取りならおそらく数百円くらい」
光子は少しがっかりした。もしかしたら「幻の香水」と言われるような逸品かもしれない、という期待もあったから。香水瓶は父の遺品なのだが、一緒に「銘柄を調べれば、良いことがある」というメモが残されていた。他に遺産と思えるようなものがなかったので、この香水が遺産の代わりになるのだろう、と思っていた。それがまさか数百円の価値にしかならないとは。
香水どころかおしゃれに全く興味を持っていなかった父のことだから、二つ混ぜたものを絶妙の香りだと思って、香水会社に売り込みに行け、ということなのだろうか。しかしどこの店でも「素晴らしい香りだ」などと言われたことがない。どうせなら混ぜずに一つずつ分けて残してくれたらよかったのに、もったいない。
「その香水瓶はラリックなので、買い取ってもらうとしたら、そちらの方が値段が高いでしょう」
考え込んでいるときに渡利が言ったので、光子は顔を上げて答えた。
「はあ、はい、それは教えてもらってましたが……」
ルネ・ラリックというフランスのデザイナーが作ったもので……というのはいくつかの買い取り店で聞いた。ガラス工芸家でもあり、香水商のフランソワ・コティから注文されて香水瓶を作ったところ、その優美なデザインから、たちまち人気になったという。20世紀の初め頃のことだそうだ。
教えてくれたうちの一人は、香水の銘柄がわからなかったせいか、代わりに香水瓶のことを熱弁していた。この形なら20万円くらいが相場らしい。
そうやわ、料金を払わんと。光子はバッグの中から封筒を取り出すと、中から新券の千円札を1枚つまみ出して、テーブルの上に置いた。別の封筒に入れた方がよかったかしら。
渡利はテーブルの隅に置いてあった領収書を、光子の方に差し出した。一千円、という数字が既に入っている。但し書きは「香水鑑識料として」。
「銘柄が二つ混ざっていたので、規定なら二千円いただくところですが、混ざっていること自体をご存じなかったようだし、千円で結構です。宛名は必要ですか?」
「え? いえ、空欄のままでも……」
一銘柄につき千円と言っていたから、確かに二千円払うべきだったかもしれない。が、鑑定の結果が正しいとも限らないし、どんな値段が妥当なのかすらわからない。しかし、千円でいいと言ってくれてるのだから……
「では、お受け取りください」
千円札と領収書を交換した。領収書を封筒にしまい、香水瓶も巾着袋に入れ、バッグにしまう。
「あの、香水を混ぜるなんてこと、普通、するものなんでしょうか?」
すぐに帰りにくくて、光子は訊いてみた。なぜ父は、二つの香水を混ぜたのだろう。銘柄を調べれば、というのなら、混ぜた理由もあるはず。自分にはわからないけど、混ざっていることがわかった人なら、その理由もわかるかもしれない……
「しません。
「そうでしょうね……」
やっぱり、わからないものなのか。しかし、せっかく香水が混じっていることまでわかったのに、どうすればいいだろうか。
「ここでその理由を調べていただくことはできませんか?」
「できません。調べるのは別のところでお願いします。ここでは鑑識しかしない」
「はあ……わかりました」
しかし、どこで調べたもらったものやら。光子が立ち上がろうとしたときに、渡利が言った。
「できるのは探偵を紹介することくらいです」
「探偵……でわかるんですか?」
そういうことを調べる探偵はいないと思っていたのだが。渡利は光子の問いかけには答えず、デスクの方へ行って引き出しを開けると、小さな紙を取り出してペンで何かを書き込んでいる。そしてテーブルの方に戻ってきて、それを光子の前に置いた。名刺だった。探偵事務所の名前と、探偵の名前と、住之江区の住所と、電話番号が記してある。
手に取って、裏を返すと、英語が筆記体で書かれていた。いや、英語ではなかった。少なくとも、光子には何が書かれているのか読み取れなかった。
「素行調査なんかはあまりせずに、そういう調べごとばかりしているところです」
「はあ、そうですか、どうも……」
光子は思わず頭を下げ、名刺をバッグの内側のポケットに入れて、立ち上がった。そして、もう一度礼をした。
「あの、どうもありがとうございました」
「お気を付けて」
渡利は光子をドアのところまで送ろうともせず、ソファーの横に立ったままだった。光子は廊下に出ると、エレベーターで下に降りた。年齢不詳の受付嬢は、光子の方を見てにこにこと笑っていた。同世代と思われているのかもしれない。
「ご用は解決しましたか? あら、よかったですね!」
しかし、鑑識の結果が正しいかどうか、光子にはよくわからなかったので、受付嬢に訊いてみた。この「鑑識事務所」はどの程度信用できるんですか?
「香水を調べてもらいはったみたいですけど、それやったら銘柄を教えてくれはったんでしょうね。渡利さんの言うことやったら、全部信じてもらってええと思いますよ。弁護士事務所の先生方も、渡利さんにはしょっちゅうお世話になってますから。筆跡鑑定とか、ようお願いしてはります。仕事は早いし、正確さは大阪府警の科捜研にも匹敵するて、よう言うてはりますわ」
「科捜研?」
テレビドラマでしか聞いたことのない名前が出てきて、光子は少し驚いた。ここは、そういうところだったのか。そもそも、香水の「鑑定」をしてもらいに来たはずなのに、「鑑識事務所」という名前なのはなぜだろうと思っていたのだ。それはともかく、そういうことなら香水の鑑識結果も、信用してもよさそう、という気がした。でも、探偵の方はどうか?
とにかく、一度、行くだけは行ってみた方がいいかもしれない。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます