第1話 フランス香水の謎

第1章 香水鑑定 (前編)

 大阪市住之江区南港北1丁目。

 それが、紹介状として渡されたメモに書かれている住所だった。大阪メトロのコスモスクエア駅を降りて、駅前の地図を見て、場所を確認してから歩く。地番を探し当てると、煉瓦色の壁の立派なビルがあった。入口の脇には「南港共同法律事務所」と大書された鉄製のプレート。その名前もメモに書かれている。どうやらここで間違いない。そして、その法律事務所の受付に申し込めばいいらしい。

 ガラスの自動ドアをくぐると、正面に受付があった。中年の、小綺麗で庶民的な受付嬢が笑顔で座っている。中年だということはわかるが、年齢がよくわからない。ことによったら自分と同じ40代かも、と光子は思った。もちろん、そんなことは尋ねない。受付嬢は鳩村という名札を付けていた。光子の方を見て軽く頭を下げた。

「あの……」

「はい、いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか?」

 声も若々しい。ますます年齢がわからなくなる。

「いえ、予約はないのですが、いつ来てもいいと聞いていたので……あの、法律事務所の方やなくて、鑑識事務所の方に……」

「ああ、鑑識の方の。少々お待ちくださいね」

 そう言って受付嬢はことさらに愛想のいい笑顔を見せてから、受付の中に置かれたPCを操作し始めた。おそらくスケジュール管理ソフトで空き時間を調べているのだろう。しかし、法律事務所の弁護士と、全然別の事務所の人のスケジュールを一括で管理してるなんて、どういうことかしらと光子は思った。人件費の削減かもしれない。

「はい、お待たせいたしました。10分ほどお待ちいただければ、鑑識の所長さんの予定が空くと思います。先に、こちらで受付票を書いてくれはりますか?」

 受付嬢が紙を差し出し、名前だけは必須、住所と電話番号は書くのも書かないのも自由、と言った。名前の欄に「縁谷 光子」、ふりがなに「へりや みつこ」と書く。住所と電話番号をどうするか、ちょっと考えたが、書かないことにした。相手を信用しないわけではないが、個人情報を書かなくてもいいのなら、それに越したことはない。

 その下の欄に「鑑識物件」とある。受付嬢に尋ねると、できれば書いて欲しいとのことだった。「書かなくても、それを鑑識してもらうときに、所長さんが自分で書かはります」とも言った。結局書くのなら、と思い、「香水」と書いた。受付嬢に紙を返すと、彼女はそれを見ながらPCに入力し、また光子に返してきた。

「ありがとうございます。では、4階に待合室がありますので、それを持って行って、そこでお待ちいただけますか」

 受付嬢が左手で受付の横を指し示す。エレベーターと階段があった。

「ありがとうございます……あの、エレベーターを使ってもいいんですか?」

「ええ、どうぞどうぞ」

 法律事務所ビルに来て、違う事務所に行くのにエレベーターを使ってもいいのかと、つい気にしてしまったのだが、よく見ると4階より上にもまた別の事務所があるらしかった。

 呼び出しボタンを押すと、4階にあったランプが1階に降りてきて、ドアが開いた。乗って「4」のボタンを押し、すぐに4階に着いて、ドアが開くとそこにも受付カウンターがあった。しかし、受付嬢はいなかった。

 カウンターには花を活けた花瓶が置いてあるだけ。受付は1階に集約したということだろう。列をなすほど、この事務所には人は来ないということに違いない。だから、いつ来てもいいということなのだろう。ただ、少し運が悪いと待つことになるが、それも10分ほどなら大したことないし……

 言われたとおり、受付前のソファーに座って待つ。待合室というよりは、廊下が少し広くなっている場所、というだけだった。左右を見渡すと廊下が続いていて、三つほどドアが見えるのだが、札が架かっているのはエレベーターに一番近いドアだけで、そこには確かに「渡利鑑識事務所」と書いてある。他は空き部屋らしい。

 5分ほどすると、そのドアが開いて、男が出てきた。ひょろりと背が高く、白いシャツに紺のジャケット、ノーネクタイ。顔が長くてしゃくれていて、猿……というか、オランウータンに似ている。光子がそこに座っているのをあらかじめ知っていたらしく、愛想のよい、しかしひょうきんな顔をして見せた。この人が、鑑識をするんやろか?

「ああ、お待たせしてしもうて、申し訳ないね。中の人は次の準備しとるんで、あと1分ほど待ってから、3回ノックして、入ってください」

 そう言って、男は片手を上げて挨拶すると、エレベーターの横の階段を降りていった。どうやら、前の依頼者だったらしい。その割には手ぶらだった。何を鑑識してもらいに来たんやろ、と光子は思ったが、他人の詮索するのはよくないと思い直した。

 待合スペースの向かいの壁にはアナログの時計が架かっていて、秒針が音もなく回っている。その針が一周するのを待ってから立って、言われたとおり、札の架かっているドアを3回ノックした。「どうぞ」と男の声が聞こえた。

 部屋に入ると、予想外に若い男が立っていた。先ほど出てきた男ほどではないが、すらりと痩せている。グレーのボタンダウンシャツに、カーキのチノパン。鑑識というから、ドラマのように紺の作業服を着ているのかと想像していたのだが、違った。

 細面で、部屋の中なのに薄い色のサングラスをかけている。その奥からこちらを見る目つきは鋭いものではないが、愛想がよいとはとても言えない。その他は、これと言って特徴のない顔立ちだ。ことによったら、二十歳になってないんと違うやろか、と光子は思った。まさかこの人が所長さんで、鑑識をするんやろか。

へりみつさんですか」

 若く見えるわりに、やけに声が低い。

「はい」

「所長の渡利あきらです」

「はあ、初めまして……」

「おかけになってください」

 受付嬢と、先ほどの男は大阪弁だったのに、彼だけが標準語だった。部屋の中央にあるソファーに座り、受付票をテーブルに置いてから、つい周りを見回す。窓際にデスク、壁際に書棚がある以外は、観葉植物一つ置いていない、殺風景な部屋だった。テーブルには名刺が一枚置いてある。これはもらっていいのだろうか。

「香水をお持ちになったとのことですが」

「はい、ここに……」

 光子はハンドバッグの中から小さな巾着袋を取り出した。この中に、香水の瓶が入っている。巾着袋は白い無地で、ファンシー・ショップかに売っていそうな安っぽい代物だ。もちろん、香水の銘柄のヒントになるようなものはない。光子が香水瓶を見つけたときにも、この袋に入っていたのだった。

「一つですか」

「はい」

「先に鑑識料の話をすると、一銘柄につき千円です。鑑識の後で支払って頂ければ結構です」

「はあ」

 こういうものの相場がよくわからないが、高くはないと光子は思った。たくさんの専門店や買い取り業者を回って調べてもらったのに、銘柄がわからなかった香水だ。どこに行っても、首をひねられてばかり。こんな香りは知らない、変な香りだ、コンセプトがわからない、散漫としている、明らかに不要な香りが混じっている、などなど。挙げ句の果てには、素人が調合したものではないか、などと言われた。

 香料会社の研究所で調べてもらってはどうか、とアドバイスされたこともあるが、そういう会社をいくつか調べて、電話で聞いてみても、香水の分析はやっていないとか、特別な調査なので数十万円の調査費用が必要とか言われてあきらめた。

 ただ、ある会社に電話したときに、そういう分析であれば、というので、この「鑑識事務所」を教えてもらった。香水に限らずいろんな「鑑識」をするところで、料金もそれほど高くないはずと言われていたが、千円なら確かに安いかもしれない。

「香水瓶だけを、テーブルの上に置いてください」

「はい、あの……銘柄がわからなくても、料金は払うんですか?」

 袋から香水瓶を取り出しながら、光子は訊いてみた。

「そういう決まりですが、どうしても納得がいかないというのであれば支払わなくても結構」

 悪いことを訊いたかもしらへんわ、と光子は思った。たとえ銘柄がわからなくても、相手の時間と知識を使うのだから、料金を払うのは当たり前だろう。

 香水瓶をテーブルの上に置く。無色のガラス製で、本体は丸くて、栓が花のデザインになっている。ちょうど、花瓶に花を挿しているような姿だった。その中に半分ほど、薄い琥珀色の液体が入っている。文字は何も書かれておらず、形からも、特定の銘柄の瓶ではないことはわかっている。


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る