暦は巡り、季節は夏へと変わった。外にいるだけで汗ばむような陽気が続き、セミもやかましく鳴き始め、確かに夏のにおいがしていた。

 日中の蒸し暑さが突然消えるわけもなくそのまま熱帯夜となっているが、日付を跨ぐか跨がないかというこの時間帯は比較的涼しく、それだけが救いだった。

 炎天下直撃の中で煙草を吸っていたら熱中症になって病院へ、なんてことが起きればそれこそ笑えない。何度目かわからない禁煙を決意したのは今日のことだが、決意が続くことはなかったため私はまたこの場所へとやってきている。

 コンビニでアイスコーヒーを買い、いつものベンチに座りタバコに火をつけた。煙を吐き一息つくと、ポケットのスマートフォンが振動したのを感じメッセージアプリを確認すると吉野からメッセージが届いていた


 吉野:明日暇?ちょっと見たい映画があるんだけど。


 幸いなことに大学はテスト期間へと移行しており授業はなかった。嵐の前の静けさというやつだ。日々のテストを一夜漬けと強運で乗り越えているお気楽大学生である私は未だ勉強する気が起きていないため特に予定もない。だが、吉野相手に素直に行けると返信するのも気乗りしない、見る作品を決めてから返事をするべきだろう。


 江嶋:何を見るかによる。

 吉野:けっこう昔の映画がリバイバル上映中なんだ。それが7/24で上映終了でさ。

 というか、その返事だと暇なんだろ?黙って来いよ。


 どうやらお見通しらしい。調べてみると、名前を聞いたことのある作品だった。今日の日付は7/23だからちょうど明日までということだろう。


 江嶋:忙しくて忙しくて仕方ないけど行ってやらんこともない。佐々木と春は誘う?

 吉野:もう誘った。佐々木は来れるらしいけど春は予定があるってさ。

 江嶋:了解、時間は?

 吉野:駅に11:30


 了解の旨を伝えるスタンプを送信して、携帯から顔をあげるとちょうど桜庭さんが現れた。


「こんばんは、今日も暑いわね」


「こんばんは。本当に暑いですね、解けそうです。」


「いっそ解けてしまいたい。」


 切実な告白にクスリと笑う。

 アイスコーヒーを1口飲み、蒸し暑さに反抗してみる。よく冷えており、一瞬だけ暑さが和らいだ気がするが、夏の暑さの根本的解決とはなるはずもなくまたすぐに汗が滲むだろう。


「私も買ってくるわ。見てたら飲みたくなっちゃった。」


「眠れなくなりますよ?」


「小学生じゃないんだから。」


 そう言って彼女はコンビニの入口をくぐった。

 戻ってきた彼女の右手にはアイスコーヒーはなく、それとは似ても似つかない缶があった。


「いや、アイスコーヒーじゃなくてビールじゃないですか」


「そうよ、暑い日のビールって美味しいのよね。」


「それは知ってますけど。」


「ちなみに、お酒飲んでる時の煙草も美味しいのよ。」


「ちなみに、それも知ってます。」


「あら、そうなの?じゃあ付き合ってくれない?今日は飲みたい気分なの。」


「僕はそうでもないですけど。」


 明日の予定に缶ビール1本が響くとは思えなかったが、なんでもない日にお酒を飲むというのも気が引けた。


「江嶋くん、お願い。」


 私はベンチを立ちまだ相当量が残ったアイスコーヒーを置き去りにしてコンビニの入口をくぐる。桜庭さんのお願いが可愛かったからではない。

 断じて、そうではない。


 ________________

 プルタブを引き、買ってきた350mlの缶ビールを口へと運ぼうとする。


「ちょっと待った。」


 動きを止めて桜庭さんのほうを見ると、乾杯しないの?と目で訴えかけているように見えた。

 私は桜庭さんのほうを向き直り、缶を差し出す。桜庭さんは、私の缶にそれをぶつけることもなく缶を控えめに掲げて目配せをした。私も同様に缶を掲げ、桜庭さんの缶にぶつける。

 かと思われたが、私の乾杯は空を切った。何事かと思い桜庭さんを見るとすでにビールを口に運んでいた。からかわれたらしい、私もあとに続いてビールを飲む。


「江嶋君って、お通夜とかには出たことないみたいね。」


「幸いなことに身内と友人の不幸には無縁なんですよ。どうしてそんなことを?」


「いえ、そんなに大事な話じゃないから気にしないで。」


「いや、そんなこと言われたら気になりますって。」


 私がそう言うと、突然犬の吠える音が聞こえた。最近、この近辺を散歩している人の犬の鳴き声だろう。私はふと思った疑問を口にした。


「桜庭さんって、犬派ですか?猫派ですか?」


「そこまでの差はないけれど猫派よ。実は猫飼ってるの。」


「そうなんですか、僕も猫派なんですよ。」


「そうなの?猫ってかわいいわよね。」


「そうですね。あのかわいらしさと自由な感じがいいですよね。」


 猫はかわいい。これだけは譲れない。猫の動画を見ていら立ちを感じるだろうか、感じるはずがない。十人の人間がいて十人は猫を見たとき癒される。たとえ犬派だったとしても「かわいい」という感情を抱かない人間はいない。いるとすれば十人中十一人目だ。そんな例外に猫と触れ合う資格はない。


「そうね、この前も家の花瓶を猫が割っちゃったんだけど、あの顔で見つめられるとついつい許しちゃうもの。」


「小さな独裁者ですからね。」


「その言い方、とても素敵ね。」


 そのフレーズはとある小説に出てきたものだった、わざわざ説明する気も起きないので説明する気はなかったが。


「桜庭さんの猫ってどんな猫なんですか?」


「普通の三毛猫よ。もう老人の年齢だから動きは弱弱しいけれど。」


 ペットというのはどうしても自分よりも早く死んでしまう。それを受け入れることは容易ではないだろう。春の飼っていた犬がなくなったとき春は一週間学校を休んでいた。それほどにショックなのだろう、私にはペットがいないのでわかりかねるが。


「名前、当ててみる?」


 桜庭さんが突然言い出した。


「さすがに当てられません。ヒントがあるなら別ですけど。」


「3回まで質問に答えるわ。それなら面白い勝負ができると思わない?」


 なるほど、確かにそれならばある種のゲームとして成り立つ。


「別にいいですけど、景品はありますか?それによってモチベーションが変わってくるんですけれど。」


「あなたが買ったらもう一本お酒を買ったげる。」


 私にとってはそれは景品にもご褒美にもなっていないのだが。


「ちなみに外れたら?」


「ビールをもう一本分、私に付き合う。」


「それ会社でやったらアルハラってやつですよ?」


「会社には仲のいい人がいないからお酒は飲まないの。」


 そういう問題ではないが、どうやら私が飲まされるのは確定らしい。明日の予定は11:30から10時に起きることができれば問題ない。私はゲームに参加することにした。


「まあ、受けて立ちますよ。回答は何回までですか?」


「質問するごとに一回。あと最初の一回で計4回まで。」


「了解です、じゃあ一回目の回答は『タマ』で。」


 私が知っている猫の名前で最もポピュラーと思われる名前を答える。どうせ当たらないならば可能性の高そうな名前を答えるのが吉だろう。


「私って江嶋君の中ではサザエさんだったのね。そんな『この子猫です』って名前は付けてないわ、不正解よ。」


 なるほど違うらしい。当たるとも思っていなかったがやはり外れているらしい。しかしここで一つ新しいヒントを得ることができた。猫らしい名前がありえないなら「みけ」や「まる」などの二文字系列は選択肢から外してよいだろう。


「質問1、名前の文字数は?」


 彼女が指折り数えて答える。


「7」


 7文字。7文字である単語を探そう。しかしここで考えたのが例えば「田中猫郎たなかねころう」のような名前であるともはや当てることは不可能だろう。ポロリとヒントを出してくれることを期待して回答する。


「2回目の解答は『田中猫郎』でお願いします。」


「違うわ。当てる気あるの?普通の単語にきまってるじゃない。」


「決まってはないと思いますけど。」


 そう答えながら、新たなヒントを得たことに内心でガッツポーズをする。もしかしたら桜庭さんはアホの子なのかもしれない、自分がヒントを出していることに気づいていないのだろうか。だが手加減する気はない、ここで畳みかけよう。


「質問2、質問3です。その猫に名前を付けたのは誰ですか?その人の好きなものは何ですか?」


「ふーん、そうきたのね。質問2の答えはお父さんよ。3の答え、お父さんの好きなものはコーヒー、クリケット、私。ちなみに連続質問によって質問2のあとの回答権は失われました。」


「え、そんな、あんまりですよ。」


「早とちりするといいことがないって学べてよかったじゃない?最後の回答は?」


 確かにその通りだ。焦ってミスをしてしまったらしい。

 落ち着いて考えよう。そう思い、煙草を取り出し火をつける。私の回答権を無効にしたことから相手に余裕がないことはわかった。よって答えには順調に近づいていると思っていいだろう。それならば、ここまでのヒントから正しく答えを組みたてればそれが正解となるはずだ。

 クリケットに関してはあまりにも無知なのであきらめよう。というか、日本に住んでてクリケット好きってなんだ、野球見ろ。

 残るヒントはコーヒーと『私』である。

『コーヒー』の周りで7文字の単語を探す。コーヒー好きの私の頭に浮かび上がったのは、とあるコーヒー豆の産地だった。これは選択肢に入れても良いだろう。

 残る『私』というと桜庭さんのことだろう。7文字、もしや猫に自分の娘と同じ名前をつけたのか?溺愛にもほどがある、却下だ。

 そこで私は桜庭さん関連で単語を探し出せるほどに桜庭さんのことを知らないことに気が付いた。出会ってもうすぐ1年になる。この人のことをもっと知りたいと、そう思った。


「回答は?」


 桜庭さんが再度私に尋ねた。顎に当てていた手を元に戻し答える。


「キリマンジャロ。」


 これでだめなら仕方がない、おとなしくもう一本ビールを買ってこよう。しかしその考えは無駄になった。


「正解。」


 桜庭さんはそう言い残してコンビニへと入っていった。正解だったらしい。最近の己の推理力には驚くばかりだ、よくもあの少ないヒントから答えを導き出せたものだ。

『少ないヒント』?

 ふと違和感を感じた。桜庭さんは質問の答えに必ずヒントとなる情報を添えていた。あれは本当に単なるミスだったのだろうか。あれがだとしたら。


「また考え事?顎に手を当ててるけど。」


 桜庭さんが戻ってきて缶ビールを私に投げた。これ500mlの方じゃないか。器用にそれをキャッチする。


「いいえ、なんでも。ビールありがとうございます。」


「いいえ、。」


 どうやら私は掌の上だったらしい。きっと私にお酒を買わせるのに気が引けたのだろう。この人にとって私はきっと年下の後輩のような立場であって対等ではない。それがなぜか悔しくてため息を吐いた。


「どうしたの?」


「いいえ、なんでも。」


 強がって返事をしてプルタブを引く。


「うわっ」


 その瞬間、飲み口から泡が噴き出した。

 いつかの花見を思い出す。




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