北魏18 拓跋嗣侵攻15

虎牢関ころうかん攻略が、なかなか進まない。

業を煮やした拓跋嗣たくばつし

ついに自ら大軍を率いて虎牢に。

三日ほど留まって攻城を指揮したが、

諦めて撤収。洛陽らくように向かった。


おい。


ただその時に三千人を残していき、

奚斤けいきんの軍の増強に充てた。

そして拓跋嗣は数日洛陽にとどまり、

黄河こうがを渡って盛楽せいらくに帰還した。


青州せいしゅうを攻めていた叔孫健しゅくそんけんらは滑臺かつだいに移動。

檀道濟だんどうさい王懿おういの率いる軍は輜重が薄く、

北魏軍を追撃しようと思ったが、

追いつけなかった。


だいじなことなので。


檀道濟は泰山たいざんにて王懿軍を切り離し、

尹卯いんうに向わせた。自らは湖陸こりくに留まる。

尹卯へは追撃のためだったようだが、

もともと機動力が違いすぎるためか、

すでに敵軍は遥か彼方。

なので王懿、檀道済のもとに戻ると、

共に水軍の整備を開始した。


叔孫健軍は滑臺に到着すると東から、

そして奚斤軍が西から、

それぞれ虎牢関を攻撃する。


虎牢関包囲が始まり、200日あまり。

この間戦いのなかった日はなく、

毛德祖もうとくそが誇った精鋭もことごとく死んだ。

しかし北魏軍の数は増える一方であった。




嗣率大眾至虎牢,停三日,自督攻城,不能下,回軍向洛陽,留三千人益鄭兵。停洛數日,渡河北歸。虜安平公等諸軍從青州退還,逕趨滑臺,檀道濟、王仲德步軍乏糧,追虜不及。道濟於泰山分遣仲德向尹卯,道濟停軍湖陸。仲德未至尹卯,聞虜已遠,還就道濟,共裝治水軍。虜安平公諸軍就滑臺,西就鄭兵,共攻虎牢。虎牢被圍二百日,無日不戰,德祖勁兵戰死殆盡,而虜增兵轉多。


嗣は大眾を率い虎牢に至り、三日停まり、自ら攻城を督せど下す能わず。軍を回らせ洛陽に向かい、三千人を留め鄭兵を益す。洛に停まること數日、渡河し北に歸す。虜の安平公が諸軍は青州より退還し、逕ちに滑臺に趨る。檀道濟、王仲德の步軍は糧に乏しく、虜を追うも及ばず。道濟は泰山にて仲德を分遣し尹卯に向わしめ、道濟は軍を湖陸に停む。仲德の未だ尹卯に至らざるに、虜の已に遠かりきを聞き、還じ道濟に就き、共に水軍を裝治す。虜の安平公の諸軍は滑臺に就き、鄭兵は西に就き、共に虎牢を攻む。虎牢の圍を被ること二百日、戰わざる日無く、德祖が勁兵は戰いに死すこと殆んど盡くも、虜の兵を增すは轉た多し。


(宋書95-18_衰亡)




この頃になると毛徳祖軍、売られてたんじゃないかって思うんですよね。


司州、と言うか洛陽のある場所って山に囲まれてます。そうから見ると一種の飛び地であり、そこを守るために兵を配するのはかなりコストが高い。しかも北魏軍が宋を攻めるためには、洛陽って一切かすらないんですよね。むしろ下手に洛陽を抱えてると、北魏のほか、長安を奪った赫連夏かくれんかの矢面にも立たされなきゃいけなくなる。淮水わいすい域を守るにあたっては、洛陽を抱えてないほうがいろいろ楽なんじゃないか、とは思わずにおれんのです。


その人身御供に差し出された毛徳祖としてはたまったもんじゃねえでしょうけど。なんか毛徳祖さん悪いことしたのかなぁ。王鎮悪おうちんあくの副官としての振る舞いも怪しかったとか? さすがにそれは勘ぐり過ぎかしら。

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