巻95 劉宋視点の北魏
北魏1 拓跋の風習
ここからは、
「
396 年。
北魏と覇を競っていた
このまたとない好機に、
十万騎を率いて
翌年の四月には陥落させ、
ついに中原進出の足がかりを得た。
このタイミングで
ただし、本拠地としたのは、
魏と呼ぶには、だいぶ北である。
ともあれ、そこに学校や尚書省を設置した。
拓跋珪はただ強いだけではなく、
学問にも通じ、天文にも明るかった。
その習俗にも触れておこう。
漢人のいう夏の始まり、つまり四月を
年明けとして祭祀している。
六月の末、つまり夏の終りには
大勢で
「
陰山は平城から 240km ほど離れた山。
鬱蒼とした森の奥深くにあり、
そこに積もる雪が溶け切ることはない。
おそらくは、彼らのもつ熱でもって
寒さを払おう、と期してのものだろう。
誰かが死ぬと死体そのものの所在は
あえて明らかとしない。
またそこに墓も建てない。
とはいえ、葬儀はする。
空の棺に、主なき霊廟を建て、
その人が生きていた頃に
用いていた車や馬具は燃やし、
亡くなった者の元へと送り届けられた。
晉孝武太元二十一年,垂死,開率十萬騎圍中山。明年四月,剋之,遂王有中州,自稱曰魏,號年天賜。元年,治代郡桑乾縣之平城。立學官,置尚書曹。開頗有學問,曉天文。其俗以四月祠天,六月末率大眾至陰山,謂之却霜。陰山去平城六百里,深遠饒樹木,霜雪未嘗釋,蓋欲以暖氣却寒也。死則潛埋,無墳壟處所,至於葬送,皆虛設棺柩,立冢槨,生時車馬器用皆燒之以送亡者。
晉の孝武の太元二十一年に垂の死せるに、開は十萬騎を率い中山を圍む。明くる年の四月、之を剋し、遂に王は中州を有し、自ら稱して魏と曰い、年を天賜と號す。元年、代郡桑乾縣の平城を治とす。學官を立て、尚書曹を置く。開は頗る學問を有し、天文に曉るし。其の俗は四月を以て祠天とし、六月末に大眾を率い陰山に至る、之を却霜と謂う。陰山は平城より去ること六百里、深遠にして樹木饒く、霜雪は未だ嘗て釋けず、蓋し暖氣を以て寒なるを却せんと欲せるなり。死さば則ち潛かに埋め、墳壟は處所に無く、葬送せるに至いて、皆な棺柩を虛設し、冢槨を立て、生時の車や馬器の用うらるは皆な之を燒きて以て亡者に送ず。
(宋書95-1_政事)
情報がいきなりクソ多い。
拓跋珪のことを拓跋開と表記するのには、この当時の拓跋珪があくまで
風習については、極寒の地なんだろうなあ、ってのが忍ばされます。漢土なら「寒さが緩んできた!」って言える一月も、代郡じゃまだまだ真冬。南国にとっての四月が、ようやく春。そして七月月にはもう、冬。「却霜」って言葉も、どうせ冬は寒くてつらいに決まってんだけど、少しでもマシであって欲しい、という思いが感じられます。
葬儀についてはこれ、移動が常の人々にとって「墓は守るもの」って考えにはなかなか至らないんでしょうね。「人間に捨てるところなし」とも言われるし、下手に死体を見つけられてしまえば、獣には食われるし、人間には資材として活用されてしまう。前者はある程度仕方ないにしても、後者を敵対部族にやられたらそりゃブチギレ案件ですわ。
このあたり、定住民族にとっては「アイツラは先祖を大切にしない! クソだ! ケダモノだ!」って指弾する恰好の材料になりそうです。一方の遊牧民たちは「お前らが何言ってんのかよくわかんねえけど、ケンカ売ってきてんのはわかる」になるでしょうね。
じんるい わ おろか
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