陶潜13 南:檀道済の訪問

陶潜とうせんの死亡は 427 年。

改めて官吏としての召喚されようとした

タイミングであった、という。

靖節せいせつ先生、と人々からは呼ばれた。


妻のてき氏もまた陶潜と志を同じくし、

その暮らしをよく支えていた。

陶潜が畑を耕せば、

翟氏がその後ろを鋤で整える、

といった様子が見られていたという。



ここで、時を戻そう。

陶潜がまだ官途に絡んでいたころの話だ。


陶潜のもとに、のちに江州こうしゅう刺史となる

檀道済だんどうさいがやってきたことがあった。

その時の陶潜は何日間も

腹をすかせてぶっ倒れ、

満足に身動きも取れない状態。


そんな陶潜に、檀道済は言う。


「論語にも言いましょう。

 賢者の処世というやつは、

 世から道理が失われれば隠れ、

 世に道理があれば現れるものだ、と。


 先生は今、文明の世にいらっしゃる。

 だというのに、なぜこのように

 苦しんでおられるのです?」


陶潜は答える。


「わしも論語でお答えしましょうか。

 潛や、何ぞ敢えて賢を望まん、です。

 どうして賢人でなぞありましょう。

 我が想いは、世には全く届かぬのです」


陶潜の状況を聞き及んでいたのだろう、

檀道済はうまい米と肉を持って

やってきていたのだが、

しかし陶潜はすげなく追い払った。



また、彭澤ほうたく県令となった頃のことだ。


任地に赴くのに、陶潜、

妻子は家に残してきた。

その代わり、任地で雇った使用人を

家へと送り込む。


彼には、こんな手紙を持たせていた。


「お前たちも日夜の仕事を

 こなしきれはすまい。

 そこで、この者を送った。

 日々の暮らしの助けとしろ。


 ただ、彼もまた人の子である。

 きっちり人として遇するように」




江州刺史檀道濟往候之,偃臥瘠餒有日矣,道濟謂曰:「夫賢者處世,天下無道則隱,有道則至。今子生文明之世,奈何自苦如此。」對曰:「潛也何敢望賢,志不及也。」道濟饋以粱肉,麾而去之。為彭澤令、不以家累自隨,送一力給其子,書曰:「汝旦夕之費,自給為難,今遣此力,助汝薪水之勞。此亦人子也,可善遇之。」元嘉四年,將復徵命,會卒。世號靖節先生。其妻翟氏,志趣亦同,能安苦節,夫耕于前,妻鋤于後云。


江州刺史の檀道濟は往きて之に候ぜるも、偃臥瘠餒し日有らば、道濟は謂いて曰く:「夫れ賢者の世に處せるに、天下に道無くば則ち隱れ、道有らば則ち至らん。今、子は文明の世に生まる。奈何んぞ自ら苦しむこと此の如きなるか」と。對えて曰く:「潛や、何ぞ敢えて賢を望まん。志は及ばざるなり」と。道濟は饋るに粱肉を以てせるも、麾して之を去らしむ。彭澤令為るに、家累を以て自ら隨えず、一なる力を送りて其の子に給し、書に曰く:「汝が旦夕の費、自ら給すこと難為らん。今、此の力を遣らん。汝が薪水の勞の助とすべし。此れ亦た人の子ならば、善く之を遇すべし」と。元嘉四年、將に復た命を徵ぜんとせるに、卒せるに會う。世に靖節先生と號さる。其の妻の翟氏は志趣を亦た同じくし、能く苦節に安んじ、夫の前に耕せるに、妻は後にて鋤せると云う。


(南史75-1_棲逸)




南史のこの辺、タイムラインが適当すぎてヤバイ。「檀道済が訪問した」のは確かに江州刺史の時だったんだろうなとは思うんだけど、それって陶潜が官途を擲った、かなり後のことなんですよね。なんでこんなぐちゃぐちゃなんだろ。


ともあれ檀道済側の主張は「劉裕りゅうゆうさまによって新たな世が導かれたのです! つまり“道理が世に示された”のだから、そろそろ出てきてもよいでしょう」となるのだが、陶淵明にとって劉裕は道理を踏み潰した張本人扱い。そりゃまぁそんな奴の送ってくる食い物なんか受け取りたくもないですわね。

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