孔淳之2 人外の游
父の死後の服喪期間の過ごし方は、
まさに孝子そのものだった。
墓の傍に庵を編んで過ごしたのだ。
喪が明けると、
それを
「人外の游」をなした。
……なにそれ。すごそう。
また王裕之は娘を
孔淳之の息子、
当時
何度も孔淳之に対し、
會稽郡府への招聘をなしたが、
結局それに応じることはなかった。
その住まいはあばら家にして
庭は雑草がぼうぼうと生え、
余計なものと言えば、
寝床の上にある数冊の本のみ。
あらためて散騎侍郎としての
召喚を受けたが、
たちまち
その行先は、家族も知らなかった。
一方で、弟の
なので孔淳之、
孔淳之が建康に!?
にわかに色めき立つ大臣たち。
中でも
その頃の治所としていたのであろう、
孔淳之、その日のうちには
車を呼び出し、会稽に帰還。
一切振り返ることもなかった。
430 年に死亡。59 歳だった。
なお孔默之は儒學を収め、
その息子、
居喪至孝,廬于墓側。服闋,與徴士戴顒、王弘之及王敬弘等共爲人外之游。敬弘以女適淳之子尚。會稽太守謝方明苦要入郡,終不肯往。茅室蓬戸,庭草蕪逕,唯牀上有數巻書。元嘉初,復徴爲散騎侍郎,乃逃于上虞縣界,家人莫知所之。弟默之爲廣州刺史,出都與別。司徒王弘要淳之集冶城,即日命駕東歸,遂不顧也。元嘉七年,卒,時年五十九。默之儒學,注穀梁春秋。默之子熙先,事在范曄傳。
喪に居すに孝至り、墓が側に廬す。服の闋ぜるに、徴士の戴顒、王弘之、及び王敬弘らと共に人外の游を爲す。敬弘は女を以て淳之が子の尚に適せしむ。會稽太守の謝方明は苦しば郡に入れんと要えど、終に往きたるを肯んぜず。茅室蓬戸、庭草は蕪逕、唯だ牀上に數巻の書有るのみ。元嘉の初、復た徴ぜられ散騎侍郎爲らしめんとされど、乃ち上虞の縣界に逃れ、家人に之きたる所知れる莫し。弟の默之は廣州刺史爲りて、都に出で與に別る。司徒の王弘の淳之を要え冶城に集めんとせるに、即日に駕に命じ東歸し、遂に顧みざりたるなり。元嘉七年に卒す、時に年五十九。默之は儒學にして、穀梁春秋を注す。默之が子の熙先の事は范曄傳に在り。
(宋書93-16_棲逸)
おい沈約、隠者のピックアップ偏りすぎだろどんだけザルな取材してんだ。お前「彼らみたいなグループの一員になりたかったです☆」みたいな願望ダダ洩れにしてんだろこれ。
そして、やっぱり奉聖亭侯周りの記述は意図的に避けている感じがありますね。どんだけナイーヴな事案だったのやら。
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