劉道産2 西方の名長官  

424 年、巴西はさい梓潼しどう二郡太守に任じられる。

地元民の黃公生こうこうせい任粛之じんしゅくし張石之ちょうせきしらは

みな譙縱しょうじゅうの残党であり、

また譙縱の姻戚であった侯攬こうらん羅奧らおうらは

白水はくすいに住まうていを引き入れた。

かれらが決起、乱を起こそうとする。


が、劉道産りゅうどうさんは先んじて

黄公生ら二十一家を誅殺。

ただしそれ以外のものについては

罪に問わなかった。


一度中央に戻り、劉義康の

驃騎将軍府における中央軍の指揮官に。

426 年には再び出向、督りょう南秦なんしん二州諸軍事、

梁南秦二州刺史となる。

つまり吉翰きつかんの後を引き継いだ形である。


任地では地元民をよく慰撫し、

かれの評判を聞いた長安ちょうあんエリア、

つまり赫連勃勃かくれんぼつぼつの支配を

受けていたエリアの住民は、

こぞって秦嶺しんれい山脈を抜けて漢中かんちゅう入りし、

劉道産を頼って逃げ延びてきたという。


442 年に死亡。

征虜將軍を追贈され、襄侯と諡された。


劉道産の善政は西部エリアに

あまねく行き渡っており、

その遺体が建康けんこうに戻されようか、

と言う時に、蛮族たちはこぞって出向き、

彼らなりの喪服を身にまとって号泣、

沔口べんこう、つまり漢水かんすい長江ちょうこう

合流地点に至るまで見送ったという。




元年,除寧遠將軍、巴西梓潼二郡太守。郡人黃公生、任肅之、張石之等並譙縱餘燼,與姻親侯攬、羅奧等招引白水氐,規欲為亂。道產誅公生等二十一家,宥其餘黨。還為彭城王義康驃騎中兵參軍。元嘉三年,督梁南秦二州諸軍事、寧遠將軍、西戎校尉、梁南秦二州刺史。在州有惠化,關中流民,前後出漢川歸之者甚多。十九年卒,追贈征虜將軍,諡曰襄侯。道產惠澤被於西土,及喪還,諸蠻皆備衰絰,號哭追送,至于沔口。


元年、寧遠將軍、巴西梓潼二郡太守に除せらる。郡人の黃公生、任肅之、張石之らは並べて譙縱が餘燼にして、姻親の侯攬、羅奧らは白水氐を招引し、規し亂を為さんと欲す。道産は公生ら二十一家を誅し、其の餘黨を宥ず。還じ彭城王義康の驃騎中兵參軍と為る。元嘉三年、督梁南秦二州諸軍事、寧遠將軍、西戎校尉、梁南秦二州刺史となる。州に在りて惠化せる有り、關中の流民は前後して漢川を出で之に歸せる者甚だ多し。十九年に卒す、征虜將軍を追贈され、諡して襄侯と曰う。道産が惠澤は西土に被り、喪の還ぜるに及び、諸蠻は皆な衰絰を備え、號哭し追送し沔口に至る。


(宋書65-4_政事)




劉道憐の下にどれだけの期間いたかにもよるけど、何というか、吉翰さんといい、相当鍛えられた(文学的表現)んでしょうね……この宋書巻六十五って本来は「有能な地方司令官」みたいな位置づけなんですが、そこにいる四人中三人がもと劉道憐の部下とか大概ですよ。ほんに「劉道憐の補佐」ってのは「大任」だったんでしょうなあ。


あ、ちなみに次の方は劉道憐の部下になっていません。

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