鄭鮮之7 曽祖を拝す   

鄭鮮之ていせんし、御史中丞からいちど

司馬徳文しばとくぶんの司徒左長史となり、

劉裕りゅうゆうの相談役に転じ、すぐ侍中となり、

また劉裕の相談役に戻る。


416 年、後秦こうしん討伐開始。

ここで鄭鮮之は副官に抜擢された。

劉裕軍が北上すると、やがて開封かいふうに至る。

そこから 120km ほど行ったところには、

曽祖父、つまり鄭渾ていこんの墓がある。


なので鄭鮮之、墓参りしたい、と請願。

受け入れられ、一時隊列を離脱した。

劉裕は鄭鮮之一行を、騎馬にて見送った。


劉裕が宋王となると奉常に、

帝位につくと太常、都官尚書となった。




自中丞轉司徒左長史,太尉諮議參軍,俄而補侍中,復爲太尉諮議。十二年,高祖北伐,以爲右長史。鮮之曾祖墓在開封,相去三百里,乞求拜省,高祖以騎送之。宋國初建,轉奉常。高祖踐阼,遷太常,都官尚書。


中丞より司徒左長史、太尉諮議參軍に轉じ、俄に侍中を補せられ、復た太尉諮議と爲る。十二年、高祖の北伐せるに、以て右長史と爲る。鮮之が曾祖の墓は開封を相い去ること三百里に在り、拜省を乞求せば、高祖は騎を以て之を送る。宋國の初に建つるに、奉常に轉ず。高祖の踐阼せるに、太常、都官尚書に遷ず。


(宋書64-7_政事)




南史ではなぜか宋書が隠す鄭鮮之の曽祖父の名を明かしています。いわく、鄭哲。西晋の江州刺史であった、とのこと。いやなんでそこに言及してやんなかったの……?


そして、一時離脱する鄭鮮之を「馬に乗って」見送る劉裕さん。なんでしょうね、通常なら見送りって別離の宴のあと、劉裕は会場に居残ったまま出立を見送る、みたいな感じになるのかな、って思うんですが。このへんのノリがいまいちよくわかんないので、この情報にエモっていいのかが判断しきれません。たぶん大丈夫だとも思うんですがねー。

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