王曇首4 門限破り    

417 年、劉義隆りゅうぎりゅうが所用あって

建康けんこう城外の建物、北堂に出た。

その所用が立て込んだのか、

城に戻ってきたのは、

午前零時を回ってからだった。


広莫門こうばくもん

建康城の北部東側にある門である。

劉義隆はそこを守っている兵士に、

城門を開けてもらうよう頼む。

しかし兵士は門を閉ざしたまま。


「城内より白虎幡びゃっこはんが振られることもなく、

 さらに陛下は、銀字棨ぎんじへきをお持ちでない。

 これでは、お求めには応じられません」


この話を聞いてビビったのが

尚書左丞の羊玄保ようげんほ。劉義隆の秘書だ。

門番を職掌とする御史中丞の傅隆ふりゅう

その部下たちを罷免しよう、と言い出す。


王曇首おうどんしゅは、その訴えを見て言う。


「陛下おん自らのお言葉は、

 何もないのでしょう?

 ならば白虎幡と銀字棨の要求は

 陛下としても妥当であった、

 と見なしておるのです。


 確かに 424 年、425 年に

 真夜中に門を臨時で開けた

 例がございました。ただそれは、

 今回のケースとは違います。


 門番どのの振る舞いは

 ルールにのっとったもの。

 礼が云々、と言い出すのは、

 お門違いでしょう。


 無論こう言った事態においては、

 旧例を参照して正しいふるまいを

 検討する余地はございましょう。


 ただ私はこのようなケースを

 耳にしたことがございません。


 ならば今回はむしろ、

 白虎幡、銀字棨の要求無き場合に

 処罰をすべきである、と解釈できます。


 後は今後、このような事態があった時に

 どのような手続きを取るべきか、を

 尚書省にて策定せねばなりますまい」


この件に関して劉義隆は

特に何も発言を残していない。

ただ、このようなケースに関しての

ルールが別個定められたのみだ。


間もなく王曇首は太子詹事、

皇太子劉劭りゅうしょうの世話係となったが、

侍中であることは元のままだった。




元嘉四年,車駕出北堂,嘗使三更竟開廣莫門,南臺云:「應須白虎幡,銀字棨。」不肯開門。尚書左丞羊玄保奏免御史中丞傅隆以下,曇首繼啟曰:「既無墨敕,又闕幡棨,雖稱上旨,不異單刺。元嘉元年、二年,雖有再開門例,此乃前事之違。今之守舊,未為非禮。但既據舊史,應有疑却本末,曾無此狀,猶宜反咎其不請白虎幡、銀字棨,致門不時開。由尚書相承之失,亦合糾正。」上特無所問,更立科條。遷太子詹事,侍中如故。


元嘉四年、車駕は北堂に出、嘗て三更にて竟に廣莫門を開かしめんとせど、南臺は云えらく:「應うるに白虎幡、銀字棨を須む」と。開門を肯んぜず。尚書左丞の羊玄保は奏じ御史中丞の傅隆以下を免ぜんとせど、曇首は啟を繼ぎて曰く:「既に墨敕無からば、又た幡棨を闕かば,上旨を稱すと雖ど、單刺に異ならず。元嘉元年、二年に再び開門せる例を有したると雖ど、此は乃ち前事と違う。今の舊を守れるは、未だ禮に非ざるを為さざりたるなり。但だ既に舊史に據さば、應に本末を疑却せるを有すべかれど、曾て此の狀無かれば、猶お宜しく其の白虎幡、銀字棨を請いたるの反咎、門の時ならずして開くるを致さば、由にて尚書は相い失を承り、亦た糾正に合すべし」と。上は特に問う所無く、更に科條を立つ。太子詹事に遷るも、侍中は故の如し。


(宋書63-11_政事)




>前例がない


惲為上東城門候。帝嘗出獵,車駕夜還,惲拒關不開。帝令從者見面於門間。惲曰:『火明遼遠』。遂不受詔。帝乃回從東中門入。明日,惲上書諫曰:『昔文王不敢槃於遊田,以萬人惟憂。而陛下遠獵山林,夜以繼晝,其於社稷宗廟何?暴虎馮河,未至之戒,誠小臣所竊憂也。』書奏,賜布百匹,貶東中門候為參封尉。(後漢書巻二十九郅惲伝)


後漢初の官吏、郅惲しつうんは、東上門の守護責任者となった。光武帝こうぶていが夜遅くまで猟をして戻ってくると、郅惲は門を開けようとしない。光武帝は従者に命じ開けさせようとしたが、郅惲は「陛下の掲げられている明りが遠くまで照らしています。こんなの、賊に格好の的となるのではありませんか?」と、ついに光武帝からの命令をはねのけた。仕方がないので光武帝は東中門にまで回り、城内に入った。翌朝、郅惲は光武帝にお叱りの手紙を書く。「昔、周の文王は外で遊べば人びとの憂いの元になる、と出歩きませんでした。だというのに陛下と来たら、山林にまで夜通し遊びに出られるなんて! なんですか、そんな遠くで祀らなきゃいけない宗廟でもあるんですか? どこにどんな危険が待ち構えているとも知れないというのに、そんなふらふらとされて! 心配するこっちの身にもなって下さい!」この書を読んで光武帝は郅惲に褒美をやり、逆に自分を入れた東中門の門衛については降格処分にしました、とさ。



おや、博学の王曇首どのはこの故事をご存じなかった? あっそうか、実はこれって范曄はんようによる創作なんだね! だから王曇首も知りようがなかったんだ! そっかぁー! それじゃあ仕方ないなあー!!!!!(ぐるぐるめ)



ちなみに白虎幡ってのは「皇帝が率いる軍が掲げる旗」。要するに危急の事態だから、本来夜中に開けちゃいけない門を特例で開けることが許される、と言うルールになります。で、銀字棨は割符みたいです。「緊急事態でもねえのに皇帝がルール破ってんじゃねえよ」が、この門番氏のメッセージとなりますでしょうかね。


ところで白虎幡については少々疑問点もあって、


晋陽秋伝

【考察】晋朝の騶虞幡、白虎幡

http://sinyousyuden.blogspot.com/p/blog-page_12.html


こちらでその存在についての考察がなされているのだけれど、「いや晋が金徳の王朝だから白虎を掲げたわけであって、その辺のルールに従うんなら劉宋じゃ玄武旗掲げるべきじゃね……?」とか思ってしまうのですよね。


と思って改めて当該サイトを読んでみたら普通に王曇首についての話も載ってましたー! ちゃはー! 記憶力皆無!

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