第72話 しっくりこない
オロクシュマに結局2泊して、臨海実験所に戻った。
「やれやれ、やりかけの実験がパァだ。
また培養からやり直さんと。」
クリプトメリアはぶつくさ言いつつ、さして落胆も感じられなかった。
日常をすべて忘れて、朝から晩までビール三昧の2日間は、かなりご満悦だったようだ。
天気は崩れがちになり、今までとは違う、底冷えのする大気を連れてきた。
振り返ってみれば、クジラ祭りの前2週間ぐらいが、トワトワトの盛夏だったらしい。
早くも夏は終わりつつあり、季節は寒冷の側に向かいつつあるようだった。
晴れ間を待って、ファーベル、ヘリアンサスと森に出掛けた。
この3人で森に行くのは、春に山菜を取りに行って、アマリリスが迷子になった時以来。
今回の目当ては秋の恵み、木イチゴやコケモモ、スイカズラといった野生のフルーツだ。
赤や橙や紺色の木の実がカゴの中を埋めて行くのは、色彩の見本のように色鮮やかできれいだった。
ヘリアンサスとファーベルはテンションが上がり、茂みの中を駆けずり回って集めている。
アマリリスはそれほどでもなく、酸味と甘味の半ばする、スイカズラの実をつまみ食いしながら、あたりをぶらぶらしていた。
川は遡上するニジマスが黒い帯をなし、ずっと先のほうまで続いていた。
大きなクズリが一尾をとらえ、森の中へ引きずっていく。
カワウソも、自分とあまり変わらない大きさの獲物と格闘し、全身を弓なりにしならせて浅瀬に引き上げようとしている。
遡上待ちの魚で大混雑している河口周辺では、ヒグマの姿もあった。
人間も、臨海実験所の冬の食料の足しに、十数尾を塩漬けにさせてもらった。
今年の分はもう十分、もう鱒は食べ飽きた、と贅沢なことを言い合っている。
そしてこれだけ寄ってたかってかじり取られても、川面を埋める黒い帯は少しも細る気配がなく、上流の湖は、産卵する魚でお祭り騒ぎになっていることだろう。
クリプトメリアが語る自然の世界、自律創出論が説明する世界は、温もりや、柔らかさや、色彩のない、無機質な骨格で形作られている。
それは本当なのだろう。
異界に法や規律を探すなら、限られた生存資源をめぐって争い、策略をめぐらす狡猾と無慈悲がその全て、その心が寒くなるような考えを、彼女の直感は否定しなかった。
生物とは、生体旋律を設計図とする機械だというのは、きっと本当のことなのだろう。
しかしその世界観は、こうして異界を歩いていて目にする、もうひとつの姿を説明してくれない。
海から森へともたらされる、溢れるばかりの恵みも、カゴの中に集められた木イチゴの、宝石のようなみずみずしさも、自律的創出論の冷たい真理とは何だかしっくりこない。
何故だろう。
背後で茂みをかき分ける音がして、またクズリだろうかと、アマリリスは何気なく振り向いた。
そして、雷に打たれたように、その場に硬直してしまった。
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