第26話 ふくれた王女


「………………ん……」


ふと寝返りをうったところで、ゆるやかに脳が覚醒する。薄く瞼を開ければ見慣れぬ部屋が映り、数秒後、俺は今どこにいるのかを思い出した。

のそりと起き上がり、カーテンを開けてみると、オレンジ色と紫色がせめぎ合う明けきらない空が広がっていた。


「ふわぁあ」


もう一度布団をかぶって二度寝をしても構わないが……、と思いつつ、俺は窓を開ける。


ハイドラ王宮の裏庭には木々が立ち並び、それを広く囲う塀があり、奥に赤茶色の岩石地帯が広がっている。

そして更にその遥か先に見ゆるのは天を衝くレイジア山脈――。朝の澄んだ空気のおかげで、雪をかぶった山頂や谷を走る街道までもがよく見えた。


視線を眼下へ戻せば、離宮の裏庭を行き交う馬車と人々の姿がある。

王宮に物資を運び入れるための商人や王宮の使用人たちだろう、と思いつつ眺めていると、その中に、裸同然の服装の人々が混ざっていることにも気付く。

重い荷物を背に負う彼らの腕や背中には、ここからでも分かるほどの鞭の跡がついていた。


ハイドラを訪れてたかだか数日だが、奴隷と呼ばれる人々の姿も見慣れてしまった。寒空の下で物同然の扱いを受ける彼ら、暖かい部屋でそれを見下ろす俺。そこに果たしてどれほどの違いがあるものか、と思わず目を逸らしかけたところで……、


「ん」


仕事に勤しむ人々の中に、俺は見知った顔を見つけた。

もう一度ベッドに入る気分にはなれず、かと言って朝食を待つにはあまりに退屈だ。

離宮の敷地内ならば散策しても強く咎められることはないだろうと、俺は外に降りてみることにした。





「――――宮の生活は――、――――さんとお母――――、みんなも――……」


離宮の裏庭に足を踏み入れ、忙しなく働く人々の邪魔にならないように間を縫っていくと、巨大な石柱の影で話をしているらしい目的の人物を見つけた。

紫髪で右目を隠した見た目が印象的な、ハイドラにおける俺の世話係、アニカである。同時にあちらも俺の姿を認めたらしく、話し相手に「ごめんなさい、行かなくては」と短く告げてから、アニカはこちらへ駆けてきた。


「おはようございます、ローレン様。なにか御用がございましたでしょうか」


「ああ、いえ、すみません、少し早く目が覚めてしまったので散歩でもと……。お仕事の邪魔をするつもりはなかったんですが」


俺はそう言いながら、アニカが先ほどまでいた方向に目をやった。

すると柱の陰からこちらを覗く視線とぶつかる。

まだ日が上り切らない時分なので、薄暗くてよく見えないが、どうやら商人や王宮関係者ではない。

汚れた布を身に纏い痩せて骨張った褐色の肌の――、奴隷だと思われる2人の男女が、どこか心配そうな表情をこちらへ向けていた。


「何かお話の途中だったのではありませんか。仕事に戻っていただいて結構ですよ。俺のことは気になさらず……、その辺を適当にぶらついてるので」


「なりません。現在私はローレン様のお世話をするようにと、王子殿下より任じられております。お客様を放って私用に時間を割くなど、あってはなりません」


「……私用だったんですか?」


「――失言でございました。お忘れくださいませ」


アニカはそう言いながらも、わずかに動揺した様子を見せる。

港町モロニから行動を共にしてはや3日目だが、常に冷静で淡々と事務的に仕事をこなすロボットのような印象の彼女が、このように人間的な反応を見せるのは初めてだ。

すると、柱の陰から覗く彼らで空気を察したようで、男が女の肩を叩いて立ち去るぞと合図をした。しかし、去り際に女が遠慮がちな声を上げる。


「アニカ、またね。げ、元気でね……!」


「――馬鹿っ、よせ……!」


男は女の口を手で覆い、引きずるようにして逃げて行ってしまった。

俺は3人の関係性がどうにも気になり、振り返って尋ねる。


「彼らは……、アニカさんのお知り合いですか?」


そう問いながら、知り合いというにも様子が違うのではという予想があった。

心配げにこちらに向けられた視線、最後に投げかけられた言葉には、隠しようもない親密さが宿っていた。

アニカは視線を下げ、逡巡している様子だった。

何と答えるべきかを悩んでいるようにも見えた。

しかしやがて、諦めに似た小さな吐息を漏らして、アニカは言う。


「……私の家族でございます。正確には、十年以上家族同然に暮らした、かつての仲間と言うべきでございましょうか」


「かつての、仲間……?」


妙な言い方に俺が首をひねると、彼女は言葉で答える代わりに、顔の右側半分を隠していた前髪を持ち上げた。


「……!?」


俺は思わず言葉を失う。

長い前髪で隠されていた彼女の顔の右半分には、額から頬にかけて肉をえぐるほどの深い火傷の跡があったからだ。最近ついたものではない。何年も前……、恐らくは幼い時に負った火傷が皮膚と同化してしまっている。

彼女は右頬に触れ、瞼が重くのしかかった方の目で俺を見た。


「これは赤ん坊の頃に、親の手によって負わされたものです。私の生みの親は酒に溺れ、借金に追われ、奴隷商に我が子を売り渡していくらかの利息と引き換えにしたのでございます」


「ど、奴隷商に売り渡されたって……、今こうして王宮で仕えているアニカさんがですか?」


「左様でございます。王宮に仕えるようになって2年、それより以前は、私はハイドラのとある貴族の邸宅で奴隷として長らく働いておりました。そこで読み書きや算術、生き抜くための術を教えてくれたのが先ほどの彼らであり、私にとっては父や母とはあの2人に他なりません」


俺は予想だにしなかった彼女の出自に驚いた。

そして同時に、家族の貴重な再会を邪魔してしまったことを申し訳なく思った。アニカの口ぶりや先の男女の様子から察するに、奴隷の身分から王宮に取り立てられたのはアニカ一人。彼らはいまだ、貴族の邸宅で働いているのだろう。

とすると、当然の疑問が新たに沸き起こってくる。


何故、アニカは2年前に、奴隷から王宮仕えにまで出世を果たしたのか――、というものである。

アニカはそんな俺の疑問を先回りするように言った。


「貴族様方の集まりの際、幸運にも王子殿下に気に入っていただいたのでございます。あの日のことがなければ、私はいまだ奴隷のままで、このような生活が出来るなどとは思いもよらなかったでしょう。加えて、給金を溜めれば、いずれ両親を奴隷の身分から救い出すことが出来るとも仰っていただいたのです。この恩を返すべく、私は殿下に命を捧げるつもりでございます」


「…………」


なるほど、あの王子ならば気まぐれに興味を持った奴隷を取り立てるくらいしそうな気がする。火傷のことをさておけば、アニカはとても整った顔をしているし、まともな教育を受けていないとは信じられないほどに学もある。

両親が授けた生き抜く術と運が、彼女の道を開いた――、ということなのかもしれない。


と、俺が考え込んだのを見て、アニカはハッとしたように言った。


「要らぬことまで申しました。お許しください」


「――――ああ、いえ! こちらこそ踏み入った話をさせてしまい、すみませんでした。また、ご両親にも申し訳なかったとお伝えください」


「いいえ」と首を振ったアニカは、表情を切り替えて言う。


「いかがいたしましょう、朝食を用意し、お部屋にお持ちいたしましょうか。それとも散策を続けられますか。私でよければ案内いたしますが」


「そうですね。それでは簡単に案内していただいてもいいですか?」


「かしこまりました」


恭しく頭を下げたアニカは、くるっと方向転換をして、果樹園があるという方へ先導し始めた。


俺はいそいそと彼女の後ろをついていくが、額の大火傷から垣間見えた壮絶な過去は、そう簡単に頭から離れない。

ヴォルークに命を捧げると言った言葉に誇張は見られなかった。

奴隷と言う身分を脱し、家族のために働くことは、彼女にとって救いに他ならないだろう。それがヴォルークの気まぐれや、無数に存在する奴隷の中の数少ない特例にすぎないとしても、である。





アニカに離宮を案内してもらったことにより有意義に時間を潰すことが出来た俺は、自室に戻って手短に朝食を摂った。

それでもまだ演習場へ赴くには時間がある――、というわけで、俺はアニカからのおすすめを受けて、離宮内1階にある書庫を訪れていた。


昨夜の夕食で話題に上った公文書室と違い、客人相手にも自由な立ち入りが許可されているこの書庫は、離宮を建設した数代前の王妃がかなりの読書家であったために用意されたものなのだそうだ。


俺は整然と立ち並ぶ書架を見上げる。

収められている本は歴史書、魔術書、地理、数学、図鑑、絵本、冒険物語、エトセトラが混ぜこぜになっている。この書庫の主は、知識を得ることよりも本を読むこと自体が好きだったのではないだろうかと、俺は思った。


書庫の隅に用意された籐椅子に腰掛け、ハイドラの魔術史について書かれている本を開いてみる。捲るたびに埃が舞うような有様だったので、破いてしまわないように細心の注意を払う必要があった。


いくつかの本にざっと目を通し、俺は気になった点をメモ用のノートに列挙する。


魔術の在り方自体には、ハイドラとマギアで大きな差はない。六精霊が世界を創りたまい、奇跡の力の一端を人間に与えたため、六属性の間に優劣はないという聖霊信仰も同様だ。

そもそも精霊教会の母体と呼ぶべき組織が発足したのは、遥か昔のハイドラであるという記載も見受けられた。その信仰がマギアに渡り、花開き、世界各地へと広められたらしい。ノイオトの精霊窟の司教がハイドラ精霊正教会を名乗っていたこと、両国の教会は折り合いがよくないと言っていたのもこのせいかと俺は納得する。


精霊によって魔術が与えられたという信仰が生まれたのが、この国ハイドラ。

しかしそれゆえに、旧時代の思想も色濃く現在に引き継がれている。


ハイドラ王国は国家全体が実力最重視主義。何事においても優勝劣敗、適者生存という価値観が先にあり、特に魔術がうまく扱えぬ者はイコール人間として価値が低いと、憚ることもなく書かれている。

魔術を与えられたゆえに人間は特別。ひっくり返せば、魔術を扱えない者は人間ですらないという過激とも言える考えだ。

マギア精霊教会に垣間見た薄暗い闇と、根っこは同じなのではと思う。

魔法を精霊の加護とし至上の物であると考えると、自然人間の中に優劣が生まれ、しかも同時に、精霊に守られているという大義名分まで与えてしまう。それが行き過ぎた結果が、マギア精霊教会地下で会った人々であり、ハイドラ王国での奴隷制度なのではないか――、と。


魔法が説明可能な科学法則であるという論が正しい形で広まれば、救われる人々の数はマギアよりも、ハイドラの方が多いかもしれないと、俺は思った。

と、そこへ、


「ローレン様、こちらにいらっしゃったのですね」


という声がして顔を上げると、目の前に眉を曇らせたノノの姿があった。


「――ノ、ノノ様。どうされました?」


出発には今しばらく猶予があり、必要があればアニカが呼びに来てくれる話になっているはずだ。昨夜夕食後にそれぞれの部屋に分かれてから今までの間に、また何か問題でも起こったのだろうかと俺の胸に不安が沸き起こる。

睨むような視線を向けるノノが俺に問うた。


「…………何をしておられるのです?」


「ご、ご覧の通り、本を読んでいました……。なかなか興味深く、出来れば数冊持ち帰りたいくらいで……。あ、勿論、許可は貰っていますよ?」


「左様でございますか、それは何よりですね。……昨夜はよく眠れましたか?」


「ああ、はい。いいベッドをいただいて、日中の疲れもあり、数える間もなく眠ってしまいました。はは」


「…………」


ノノの表情は晴れず、俺の笑い声だけが虚しく書庫に響く。

どうにも何か問題が起こっているというよりは、俺のことを責めているような感じだ。しかし尚のこと心当たりがない俺は、おずおずと視線を返すしかない。

しばし仁王立ちで俺を見下ろしていた彼女は、横にあった椅子をずらし、わざと音を立てるように座った。


「私はよく眠れませんでした」


「――え?」


「よく、眠れませんでした。今日のことが心配で、目を閉じても嫌な想像ばかりしてしまって、いつの間にか朝を迎えてしまいました」


「心配、ですか? 一体何が……」


俺が首をひねると、ノノはいよいよ眉を吊り上げ、頬を膨らませる。

そして俺の広げていた本を奪い取るようにして、声を一段高くして言った。


「ローレン様の事に決まっているではありませんか! まさか昨夜のお話を忘れてしまったのではないでしょう!?」


「………………昨夜の……。あ、今日の真剣試合の事ですか!」


「本当に忘れておられたのですか!?」


「わ、忘れてはいませんよ。重要な水晶がかかった交渉ですから」


その返答に、しかしノノは納得いっていないような表情だ。


「……その割には、緊張さえしておられないように見えます。朝にお部屋を訪ねた際に姿がないと心配していたら、離宮の観光案内を受け、書庫で吞気に本を読んでおられると言うではありませんか……。これでは一晩中、気を揉んでいた私が馬鹿みたいです」


「!」


俺はそこでようやく、責めるような視線の意味を理解し、弁明する。


「そ、そうとは知らず申し訳ありません。決して吞気に構えていた訳ではなく……、えー、ヴォルーク王子相手にあんな約束をしてしまった手前、どうしたものかと頭を悩ませた末に何かヒントがあるのではと思い、ハイドラの魔術関連の本をですね――」


「嘘でしょう」


「すみません、今考えた言い訳です」


「……まったくもう」


ノノは呆れたように口を尖らせ、背もたれに身を預けた。

俺も、演習場で行われる真剣試合においてそこまでの危機感を抱いていなかった自分に気付いて呆れた。つい昨夜に、己の身を顧みないきらいがあるという指摘を受けたばかりなのにもかかわらずである。


「せっかく頼っていただいたのに、あのような交渉結果になってしまったことに責任を感じていたのです。もし万一のことがあれば、私はダミアンやヨルクお兄様に合わせる顔がありません」


「いいえ、それは違います。これは叶うはずのなかった交渉がノノ様のご提案によって実現した、千載一遇のチャンスなのです。無駄にするつもりはありませんよ」


「……新兵と言えども、黒狼軍は猛者揃い。それと30対1など、普通であれば自殺に等しい行為なんですよ。いかにローレン様と言えど、そのようなご経験はないでしょう?」


「あー……、精霊教会の最上階で、似たような状況になったことはあります」


「何故あるのですか!」


何故あるんだろう。

別に願って死線を潜り抜けて来たわけではないのだが、4年前も成り行き上、気付けばそんな状況に陥っていた。ノノは呆れを通り越し、諦めに近い表情で嘆息する。


「分かりました、ローレン様のことを心配するのは無駄なのでもう止めます。ただ、怪我をしないようにというのは約束ではなく、命令ですからね。破ったら本当に怒りますから。帰り路も口をききません。騎士団の皆様にもそうお願いします」


「全員から無視されながらの船旅を想像すると、さすがにきついですね……」


「嫌なら命令に従ってください」


俺が「はい、仰せの通りに」と頭を下げると、ノノの顔はようやく普段の穏やかなものに戻った。

そこで折りよく雲が晴れたのか、天窓から眩しい冬の日差しが差し込んでくる。既に随分と陽が高くなっていたようである。


「準備が出来次第、呼びに来ると言われているんですが、いつ頃出発の予定なんでしょう」


「少なくとも、ヴォルーク様がお目覚めになるのを待ってからだと思います」


「――え?」


「いつも昼前まで寝ておられるのだそうです。加えて、人に起こされることが大層お嫌いだとか」


「な、なるほど」


さすがハイドラ王家唯一の跡取りともなれば気ままな生活が送れるものだ。


「つまり我々は、王子が目覚めて、湯あみをして、食事を摂り、着替え終わるのを今しばらく待たねばならないというわけですね」


「まだ本を読む時間は残っていると思いますよ。私もこの部屋でご一緒させていただいてもよろしいですか?」


「勿論です」


「では、飲み物をお願いできるか聞いてまいりましょう」


そう言ってノノは立ち上がり、扉の向こうに控えている衛兵に声をかけに行った。

アニカが出発の報を知らせに来たのは、それから3時間ほど後、太陽が真上を通り過ぎる頃合いだった。

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