リモータービュランス
なんもかんもぶっ飛ぶような強風と、真夏を先取りしたような暑さに、おれは昼からビールを飲みたくなった。飲んでもいい。数日前なら確実に飲んでた。
目の前にチラつく欲望に耐えているのは、もうじきテレワークが終わるかもしれないからだ。
先はまるで分からない。
分からない
ミサキさんとおれでテスト運用し、室長に報告した結果、実はかなりの割合でテレワーク化が進行しているという。
部署によってはビデオ会議も盛んに行われているらしいが、ウチはいまのところなし。思い返せば頻繁に会議をしていた気がするのだが、テレワークが無駄を可視化したのかもしれない。あるいは、室長のITスキルの低さが功を奏しているのか。
「――だけじゃないと思うッスよー?」
ミサキさんは赤と青で彩られた仄かにパチ臭いコントローラーをカチカチ動かしながら、興味なさそうに言った。視線は画面の外に向いている。おそらく、その方向にはゲーム用のモニターがあり、ミサキさんの魂の三割くらいを宿したアバターが無人島で活動しているのだろう。
「だけじゃない、と言いますと?」
おれの方はと言えば、お絵かきをしている。現実感の乏しい艷やかなライムグリーンの頭に一房のポイントレッド。頭には熊耳のヘッドホン。眼鏡はなくて、代わりとばかりに青いカラーコンタクトを入れている。どういうメイク術を施しているのか、モニター越しに見るミサキさんの肌は、平面世界の住人を思わせる白さだった。
「昨日のお話ッスよー」
「昨日のっていうか……あー、つまり音がストレスにならない人は相性が……」
「デスデス。室長もきっとお
「それで人に気を使えるようになったってことですか?」
ありえる。おれは日に日に丁寧になっていく室長のメールを思い出し、失笑した。
「気を使うって言いマスか……多分、管理がメンドイってのもあるのかと」
「室長の仕事って部屋の人間の管理なのでは」
「そうデスけど……テレワークで日中管理しようとしたら、ほとんど監視になっちゃうッス」
「ふむ」
「一日の仕事量を監視するだけならデータを取るだけでいいんデスが……」
「それだとこっちがズルしない?」
「デスねー。ようは、働き方が変わっちゃっ――にゅわー!」
突然の奇声に思わず力が入り、鉛筆の先がボキっといった。
「な、なに!? なんですか!?」
「ゆ、だ、ん、し、た、ッスよー……」
打ちのめされたと言わんばかりの大げさな動きでコントローラーをテーブルに置き、ミサキさんは床からピコピコギブソンを取ってテーブルで鳴らした。
「えーっと……?」
「やー、タランチュラが……やっぱりおしゃべりしながらのプレイってムズいッスねー」
「邪魔しちゃった感じですかね?」
「いえいえ、じぇんじぇんデスよー。むしろいい練習になるかと思ってて」
「練習」
「実況プレイの練習デス」
「あ、やっぱりですか」
なんちゃらアイリッシュめいた浮世離れな格好をしているのも、リモートカレシ(ミサキさん命名)たるおれの要請をうけてのことだろう。
もし顔出しでやるなら、眼鏡は外す。ウイッグなりなんなりで別人化する。
ミサキさんはドクセンヨクの強いリモートカレシの要請を、完璧にこなしていた。
「……でも、そこまで作り込むんならバーチャルでよくないっすか?」
「こんなに可愛い地顔があるのにッスか?」
さらりと言ってのけ、ミサキさんは猫の口のような笑みをこちらに向けた。背景にドヤァと大文字が踊っているような気配すら感じる。なんならパッドを叩いてドーンとかジャーンとかSE出しておくべきところ。
「まあ、似合ってますし、可愛いですけど」
「でしょー? 知ってるッス」
目元で横ピースを決め、再びコントローラーを取った。新たに視界に加わったレーシングバケット風の背もたれに体重をあずけ、島での労働に戻る。
その自分で言って自分で照れているであろう、見た目には分からない頬の赤みを、おれはスケッチに書き足した。できれば高鳴っているはずの胸の鼓動も塗り込めたいが、生憎とそこまでの腕はない。
「あー、でもバーチャルでおれが声を」
「――それはダメッス」
また即答だった。
「……なんで、とは聞きませんが」
「いい心がけだと思うッス」
「……ミサキさんも強くないですか、独占欲」
「めちゃんこ強いッスよ」
カチカチ、と乾いたコントロールパッドの音だけがしていた。ミサキさんは照れるような素振りを一瞬も見せないまま、話をつづけた。
「だって、自分には二度とこなそうなラッキーデスし」
「と、言いますと?」
「自分がいいなって思った人が、自分のことを好きだって言ってくれて」
「えっと」
「しかも、いまみたいな感じのときじゃなくて、眼鏡かけてるときのがイイって」
「それは本当にそう思うけど」
「絶対、他の人に渡したくないッス」
「えっと……」
ストレートすぎるくらいの言葉のパンチに、おれは鼻血が出そうになった。五月上旬からフル稼働を余儀なくされクーラーが不満げに息をついた。じっとりと額に浮いた汗の玉をぬぐい、おれはミサキさんの横顔の模写を続ける。
「あの……おれはイイ声だって言ってもらえるならそれを――」
「分かってるッスよ。だからダメって言ってるッス」
「別に誰かのものになったりするわけじゃ――」
「なるッス。確実に」
コツン、とコントローラーを床に置き、ミサキさんがこちらに向き直った。
「世界で自分しか知らなかったはずの声が、他の誰かの耳に入っちゃうッス」
「……お、大げさじゃないですか?」
「ぜんぜん、大げさじゃないッス」
ミサキさんはヘッドホンを外して耳をひと撫でし、いつもの黒縁眼鏡をかけた。アニメでなければパンクかエモでしか見ないような髪色に黒縁眼鏡。その奥にサファイアブルーに染まった瞳がある。
「もし声を配信するっていうなら、自分もこの眼鏡つきでやるッス」
「それはダメ」
我ながらビックリするような速さで拒否していた。同時に、気づいた。髪型と髪色と瞳の色すら違っているのに、いつもの黒縁眼鏡ひとつでミサキさんだと分かるのだ。同一人物だと秒以下で認識できる。可愛い。はっきり言って、
「ミサキさん、可愛すぎです」
「……知ってマス」
頬の色はファンタジックな白磁のままだが、耳はほんのり色づいた。普通、仮面やらなんやらというのは社会や人目への防具であって、眼鏡もそのひとつとして機能すると聞いてたのだが、ミサキさんにとっては逆らしい。
あるいは、パブロフの犬ではないけれど、
「おれのミサキさんスイッチは眼鏡のかもですね」
「なんデスか? おれのミサキスイッチって」
ミサキさんはちょっと恥ずかしそうに両手で眼鏡のつるを支えて高さを調整した。キズナだというベルベットのチョーカーに触れ、はにかむように笑い、鼓動を確かめるように大きく膨らんだ胸に手を押し当てた。
「……本当にそうかもッス」
「なにがです?」
「ヘッドホンから声が漏れてくるッスよ」
「……でしょうね。けど、それがどうかしました?」
「なんか首元でこしょこしょ話しかけられてるみたいで、くすぐったくて」
ミサキさんはうっとりと目元を緩めた。
「やっぱり、この声は誰にも渡せないッス。自分だけのものッス」
「……嬉しいような、怖いような」
「喜んで、怖がってくれていいッスよ? 自分でもそう思いマスし」
気を使ってくれているのか、本気で言っているのか、判然としない。
とはいえ、おれに文句をいう権利はないだろう。
「おれだって眼鏡にこだわってますしね、お互い様です」
「……自分、そんなにこの眼鏡似合ってマス?」
「似合ってますよ。ホントに」
「ありがとう――ッス」
忘れたように後ろに『ス』を付け足して、ミサキさんはヘッドホンを掛けた。
「まだタメ語は照れちゃってダメかもです」
また鼻血がでるかと思った。
ミサキさんは、眼鏡をかけると言葉の破壊力もあがるらしい。
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