番犬(続)
『ゆ』
『る』
『さ』
『な』
『い』
この、這いずる恐怖を、自分は以前にも感じたことがある。
あれは、2年前の12月。隊長の家が管理する霊山で間見えた、白い、主に対する恐怖。しかし、あの時感じた位の違うものに対する純粋な恐怖よりも、今の方が理解できる感情が混じっていた。叩きつけられる高位の存在の「怒り」の感情への恐怖心。
後ろにいた中田が気絶しかけたのを、腕を掴んで引き戻した。しかし、自分もほとんど気力のみで立っているにすぎない。
「.......あなた達、管理に失敗しましたね? あれはもう、落ちている」
表情の消えた八条隊長の問いかけに、今の今まで怯えていた黒い着物の女の顔が豹変する。
「うるさいっ!! 間違えているのはお前たちだ!! 零の家だ!!! 私達が正しいあり方だ!!」
「これの、どこが正しいあり方なんですか? このままでは、全員喰い殺されますよ」
「それが主様の望なら従うべきだ!! 私達は自然の中に生きている!! それを歪めて、卑しく生きようだなんて間違っている!! 零は、間違っている!! 首を取ってやる!!」
六条当主がいきなり廊下の窓を開け放ち、外へと飛び出す。その後に続いて、自分と中田、八条隊長が走った。それを追いかけて、20人以上の男達がやってくる。
六条当主が足を止めたのは、日の当たらない裏庭のような場所だった。その、中央で。
ずるり、と。赤黒い大きな蛇が、とぐろを巻いている。
人の胴体ほどの太さ、長さは50メートルはあろうかという蛇。その蛇の目の前に、腰を抜かした女性が3人いた。
水瀬さん、町田さん。それに隊長の監視。
全員呆然と蛇の目を見つめ続け、ぴくりともしない。
「動けっっ!!!」
自分の怒鳴り声はよく響く。あのやかましい唇筋肉よりも響くのだから、この距離なら確実に届いているはずだ。
ぴくり、と水瀬さんの肩が動いた。
『おい』
蛇が口を開いた。ぱかり、とあいた口の中には、粘ついた黒い何かがまとわりついた、鋭い牙が2つ。
『もう、許さぬぞ』
いきなり、ばっ、と水瀬さんと町田さんが跳ね起きた。
そこへ目掛けて、今まで自分達の後ろにいた隊長の式神が動く。水瀬さん達へ食いかかろうとした蛇に向かって術をかけながら、その体自体を盾に蛇の動きを止めた。蛇の牙に貫かれた隊長の式神は、そのまま消える。
しかし、その隙に水瀬さんは未だ腰を抜かしている隊長の監視を掴み、サラマンダーの入ったランプを持った町田さんと一緒に、こちらへ向かって走り出していた。
『2度目は無いと、言うたはずだ』
「お許しください!! お許しください主様!! どうか!!」
黒い着物の女が土下座をした。
その横を走り抜けてきた水瀬さん達を、自分と中田が抱きとめる。ざっと彼女達の全身に目線を動かし、細かく震える体に怪我がないか確認する。
「副隊長!! どうしよう!! どうしよう!!」
「落ち着いてください、大丈夫です。ここには六条当主もいらっしゃいますから」
「違う!! アイツら話を聞かない!! 何もしてないのに斧で頭.......っ!! 刃の、反対側だったけど、血が!! 七条和臣は話してたのに!! 助けるって言ったのに!!」
混乱しているのだろう、支離滅裂だ。水瀬さんも、中田に向かって何か叫んでいる。しかし、それより。我々の隊長は、どこにいるのだ。
『もう、良い』
主の声。黒い蛇は、土下座する女を見下しながら。
『私の機嫌を取りたいのなら』
ちろり、と長い舌が蛇の口周りを回る。
『殺し合え。本気でな。その見世物は面白かったと、近頃聞いた』
震えながら土下座していた黒い着物の女が、ゆらりと立ち上がった。それから虚ろな顔で。
「はい。我ら一族を脅かす彼らを、本気で殺して見せましょう。.......あの子は、誰にも殺させない」
自分達に、殺意を向けた。
20人以上の男達が、どこからが斧やナタ、鉄パイプなどを取り出す。さらに札や術を構えながら、囲むように総能の着物を着た自分達7人にじりじりと寄ってくる。
「.......これは、本気のようですね」
八条隊長が、台所包丁を持って寄ってくる男から目を離さず言った。六条当主は、先程からずっと蛇だけを見ていて動く気配がない。当然、まだ混乱している水瀬さんと町田さんは戦力外だ。
このままでは、我々は数と武器に押され嬲り殺される。
「.......これは、負けますね」
八条隊長は、ふ、と肩の力を抜いた。
「十条さん」
それから、なんでもないようににこやかに、武器を持つ男達へと歩みを進める。男達の壁の奥にいる、黒い着物の女の方へと。
「私、勝ち目のない争いはしない主義なんですよ」
まさか、コイツ。
「私はあなた方に着きましょう。確かに、主様の言うことは絶対です。私も常々、自分達の家の山の管理には疑問を持っていたのです」
八条隊長は、吐き気がするほど爽やかな笑顔で、女の横に立った。
「さあ、私がこちらに着いたのです。こちらの勝ちは確実ですね。このまま行けば零様も落とせるかも知れませんよ」
「.......本気で、
「はい。私は勝つ方に着きます。それが私の処世術ですから」
「.......なら、殺して見せろ。お前の仲間を」
「困りましたね。彼らは元々、仲間では無いのですが.......分かりました。今日は丁度、大鎌を持ってきていますから。八条の鎌で、首を撥ねてあげましょう」
八条隊長は、にこりと微笑んだ。そして、袂から数本の棒を取り出し、勿体ぶるように連結させていく。あれは、八条の鎌の柄だ。八条隊長の鎌は、刃だけが霊力で出来ていると聞いたことがある。
あの野郎は、俺達を殺してこの訳の分からない家に着くと、言っているのか。
「.......ふざけるな」
拳を握った。前を見た。
貴様が仮にも隊の長であるのなら、そんな態度を死んでも取るな。筋ってのは、死んでも通すもんだろう。
にじり寄ってくる男どもと、神経に触る笑顔のあの男に、ふり抜く拳をさだめた。しかし。
『遅い。つまらん。つまらんつまらんつまらんつまらん。私が、面白く殺し合えと言うただろうに』
ずるりと這い出した蛇を見ても、六条当主は動かない。いや、まさか。
動けないのか。
『ああ、気に触る癪に障る頭にくる。苛立たしい、腹立たしい、憎たらしい!』
蛇は、粘ついた何かが糸を引く、大口を開けた。
『全員沈め殺してやろう。不味いからもう喰いはしないがな』
濃密な、水と死の匂いがした。
「ーっ!」
からん。
軽い音とともに、大口を開けた蛇の目の前に、何か鈍く光る、細長い棒が投げ出された。
それが飛んできた方向には。
「す.......すと、っぷ.......」
掠れた、消え入りそうな声。
庭の奥にある井戸の淵に左腕をかけ上半身を井戸の中から覗かせた、ずぶ濡れの人。何かを投げた形のまま右腕を浮かせてぜえはあと肩を荒らげながら、頭から血を流す隊長が、この場に待ったをかけた。
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