第7話 日常の終わり、普通の始まり

 

「相手してやるよ。バカ蜘蛛」


 目の前の妖怪、土蜘蛛は、7本になった脚をガサガサと動かしてこちらに向かってくる。

 先ほどとは比較にならないスピードとパワー。

 生物離れした、まるで自動車にも似た圧倒的な力が、ブレーキなしに突っ込んでくる。


 しかしなぜここで急に、土蜘蛛は泣いて尻餅をついている水瀬ではなく、堂々と戦う意志を見せた俺を狙ったのか。理由は簡単だ。



 奴が俺の名前を呼び、それに俺が返事をした。

 それによって俺たちには、ができてしまった。


 本来、妖怪に苗字程度を知られても問題はないはずだが、相手が強い力を持っている場合、苗字だけでもしっかりこちらとあちらの者同士が繋がってしまうことがあるのだ。


『七条、たべョ?』


「【律糸りっし】」


 ギチギチと、縛り付けられるような音を立てて土蜘蛛が止まる。

 しかし、すぐにぶちんっと何かが切れる音とともにヤツは動き始めた。先ほどより確実に強くなっている。俺と繋がってしまった今、奴は先ほどより強くこちらに踏み込むことができるようになったのだ。名前を知られてしまえば、その妖怪を倒すことが1段階難しくなる。


「うーん。やっぱり蜘蛛に糸って不利か?」


 それでも、余裕を失うことはない。焦りや怯えも、妖怪を強くするものだ。


『ぎぃぎぃ! 七条、よわイ弱い! 食べるかラナ!』


「弱くないし。【切糸せっし】」


 土蜘蛛の脚が宙に舞う。


 ただ、想定外だったのは。今ので胴体から真っ二つにするはずだった土蜘蛛が、残りの5本の脚をばたつかせ、のたうち回っていた事だ。


『あぁぁあああしぃぃいい!!』


 これは本当にまずいのかもしれない。

 土蜘蛛の、総能が付けた危険度はB。


 これは、一般的な実力の術者が5で対処することを推奨するランクだ。


『ころスコろすこロす殺す!』


「殺されるかよ。【禁糸きんし】」


 ビタ、と土蜘蛛の動きが止まる。


「お、これは効くのか」


 きいきいと高い音がして、土蜘蛛の脚にびっしりと生えた毛が動く。

 次の瞬間、ばちんっと、鼓膜を打つ音がした。


『効かナいイイいい!』


「やっぱり糸はだめかー」


 向かってくる土蜘蛛を、己の左足を軸にぐりんと体を回すことで躱して、その反動のまま数歩移動し座り込んだ水瀬の前に立った。しかし。


「痛って」


 躱したと思ったが、土蜘蛛の脚が腕をかすったらしい。

 シャツが破れて血が滲んでいた。


「えー、制服だめにしちゃったよ」


 テンションは最悪。丸腰は丸腰でも、せめて制服から着替えておけば良かった。


『殺す』


 土蜘蛛は、一言だけはっきりと口にして。いきなり、なんの予備動作もなく、口から糸を吐き出した。

 それは、糸と言うには硬すぎて、もはや鋼の棒のようだった。


「【三壁・守護さんぺき・しゅご】」


 目の前に、三角形のが現れる。

 がぎゃぎゃぎゃ、と硬く不快な音を立てて鋼じみた糸が止まった。


『ーーーー!!!』


 もはや声にならない声を上げて、土蜘蛛が飛び上がる。そのままその圧倒的な質量を武器に、重力を味方に降ってくる。


「【滅糸の一めっしのいち鬼怒糸きぬいと】!」


 、真っ白な糸が土蜘蛛を包む。


 そして、白い糸が解けた時には、何も残らなかった。


 俺たちをこの粗末な空間に呼び込んだ張本人が消え、あの蜘蛛の糸が切れた。

 それによって、景色が歪む。場所が移る。

 右が左に、左が右に。

 月のない空には、まん丸な月が浮かぶ。


「あー、終わった終わった」


 後ろを振り返ると、震えて座り込んでいたはずの水瀬に勢いよく札を投げられた。

 チッ、と頬を掠めた札は、背後で消えずに残って俺の首を狙っていた黒い1本の脚に貼り付き、脚は煙を上げて消えた。


 ぶわっと全身から冷や汗が出る。

 油断した。今のは命が危なかった。


「……七条くん」


「は、はい」


「助けてくれてありがとう。心からお礼を言わせてもらうわ。でも、1つ言いたいことがあるの」


「な、なんでしょう?」


 水瀬はすくっと立ち上がって、強い瞳で俺を睨んだ。


「あなた、さっき私を可哀想だと思ったでしょう。確かに、私だってあんなの見えない方がいいわ。戦いたい訳でもない。でも、」


 水瀬はもう、泣いていなかった。



「見えてしまうのなら仕方ないわ! これが私よ! それを憐れまれても、なにも嬉しくないわ。私は一生こうやって生きていくの! 私の普通を憐れまれても不愉快よ!」



 そう言いきった水瀬は、とんでもなく綺麗だった。

 月の光に照らされて、滑らかな白い頬に銀の涙のあとがきらめく。

 俺を睨む目元がまだ少し赤いのは、見なかったことにした。



「……悪かった。水瀬」


「な、なによ、急に。そこは、せっかく守ってやったのにって、怒るところじゃないかしら? 私も、生意気で失礼なことを言った自覚はあるわ」


「水瀬さ、術者としての才能あるよ。もし、水瀬が良いなら.......俺に、水瀬の普通の、手伝いをさせてくれ」


「え? どういうことかしら」


 水瀬がキョトンと目を丸くしている。それになんだか恥ずかしくなり、目を逸らした。


「だ、だから。その、」


「君達、何してるんだ!!」


 背後からの声。振り向けば、黒い和服姿の男数人が走って来ていた。

 黒い和服の胸元には「七」という白い染抜きがある。


「君たち、早く家に帰りなさい。夜は危ないんだぞ」


 また警戒して、スカートのポケットに手をやった水瀬を制す。安心していい、この人たちは正真正銘の人間だ。


「君たち!聞いているのか!」


「あの、土蜘蛛はもう倒したので。大丈夫です」


「は?」


「第七隊の人ですよね。土蜘蛛はさっき倒しました。そっちにまだ脚の残りがあると思います」


「き、君は能力者か。だったらそんな冗談言ってる場合じゃないと分かるだろ。土蜘蛛って言ったら危険度Bだぞ!絶対に近寄るなと言われているだろう!」


 慌てたように男の人が俺を窘める。悲しいほど信じてくれない。


「だからですね、土蜘蛛はさっき」


「それに、そっちの子が持っているのは使える札だね? 免許無しでの術の行使は罰則規定違反だ。2人とも名前を聞こう」


 すぐに落ち着きを取り戻し厳しい顔になった男の人に、ポケットから財布を取り出して、随分と埃を被ったを見せた。もちろん、普通自動車免許ではない。


「は? 免許? なんだ、こんな日に術者ごっこか.......って、特免とくめん!? 16歳って.......えぇ!?」


 なんとなく分かっていた反応だが、面倒なのは変わらないでさっさと終わらせたかった。


「七条孝臣の弟です。こっちの女の子は俺の弟子です」


「ちょっと、私がいつ弟子入りしたのよ」


 水瀬の不満そうな声が上がる。さらっと流してはくれないか。


「俺、一応水瀬の後見人なんだけど」


「だからって弟子なんて聞いてないわ」


「なあ、その話後にしない? おじさん困ってるから」


 男の人は辛そうに手で顔を覆っていた。しかしすぐに、諦めたような笑顔を貼り付けた顔を上げた。


「まだ、お兄さんだよ.......。でも、君が隊長の弟さんか。そうか、それなら分からないこともない」


 お兄さんが納得したように俺を見た時。


「和臣ーーー!!!」


 ドタバタと沢山の黒い和服の人達が走ってくる。その先頭にいる背の高い男は、見知った顔だった。我が兄貴である。しかしなぜかめちゃくちゃ怒っている。


「お前が、学校って言うからな!! 俺は学校の立ち入り許可まで取って探したのに! お前、お前ここかよ!」


「兄貴遅すぎ。もう倒したよ」


「頼むから話を聞いてくれ!!」


 兄貴の説教が長くなりそうだったので、腕の怪我があるからと逃げ出した。

 それから、大したことのなかった怪我の手当を受けて家に帰った。

 水瀬は今日はウチに泊まることになった。水瀬はもういつも通りの無表情だったが、さすがにさっきの今ではいさようなら、とはいかなかった。

 家までの帰り道、もうバスがないので黙って坂道を登る途中。


「……水瀬、さっきも言ったけどさ、才能あるよ。だから、水瀬がこっちの道を進むんなら.......。俺を、水瀬の師匠にしてくれ!」


 ぱん、と両手を合わせて頼み込んだ。


「……普通、弟子入りを頼むものじゃないのかしら?」


 水瀬は相変わらず、全く表情を動かさずに言った。


「そこは触れないでくれ」


「……ふふ、そうね。でも私、七条くんがどんな能力者なのか知らないのよね」


 その言葉に自然と目線が下がっていて、自分の汚れた靴を見つめる。


「あーー。それは、その、」


 どうしたものかと、困っていると。



「ふふ! いいわ! 七条和臣くん、私を、あなたの弟子にしてあげる!」



 そう言って。俺の前で初めて笑った水瀬は、とても綺麗だった。

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