帝国の使者(3)
アスマが不在で自由な時間を作れる間に、散らかり切った研究室を綺麗にしてしまおうと、国家魔術師のパロールとラングは資料の整理を始めていた。
しばらく前まで埃を被っていた資料の数々だが、今はそのほとんどが役目を終えたので、書物は書物として書棚に戻していくことにする。
その作業を進めながら、パロールとラングが話題に上げていたのは、今日の王城で最注目のトピックである、隣国からの使者のことだった。
「噂に聞くに、宰相閣下と面会した人物は帝国の将官だそうですよ」
「ああ、らしいね。大将だったっけ?」
「そうです。そんな人がわざわざ、この王国のど真ん中までやってくるなんて、何を考えているんですかね?」
「帝国のことだからね。何もないとは思えないんだけど、如何せん、軍事に関わるところの思想は一魔術師には読めないところが多いから」
「ああ、確かに。この城の騎士様の話も、内容次第では違う国の言葉に聞こえるくらいですからね。それが本当に違う国の話になったら、分からないことの方が多いですよね」
舞台こそ、自分の住んでいる王城ではあるのだが、その内容については遠い世界の話のように語りながらも、ただどこかでパロールは不安に思っているところがあった。
こういう物騒な話が首を擡げる度に、パロールの中で芽生えるのは、長い年月、パロールを縛りつけた負の遺産とも言える感情だ。
「本当に何もないといいですね。もう何かが起きるのは懲り懲りです」
「きっと大丈夫だよ。これまでのことと違って、今回は人と人同士で、真正面からの出来事なんだから。何かが起きたとしても、ちゃんと解決する方法があるはずだよ」
「そう、ですよね……そう」
普通のことなら、大概のことは問題とは言えない。そう思ってしまうほどの出来事が、これまでのエアリエル王国で起きている。今更、何かが起きたとしても、そのことで慌てることはない。対応できるだけの力はあるはずだ。
そう思う一方、これまでに起きてきたことがそれなら、この次に起きることも、当然普通のことではないと考えてしまう気持ちもある。
それがパロールの中で不安の種となって、いつまでも燻ぶり続けるから厄介だ。
深く考え過ぎても仕方ないとは思っている。国家魔術師ではあるが、魔術師であるパロールにできることは限られている。話が国家の話であれば、そこにパロールが関われる余地はほとんどないはずだ。
今は気持ちを切り替えて、アスマが戻ってきた時に、これまで通りの生活に戻れるように、今できることをやろう。そう思いながら、資料を仕舞おうとして、パロールは気がついた。
大半の資料はパロールがこれまでに自分で所有していた物だが、それだけで研究が進むとは限らない。中には貴重な書物が必要な場合もあって、そういうものを手に入れることは大変であることから、周囲に持っている人がいたら、借りることも当たり前だ。
その時に持っていた書物は、偶然にもその借りた一冊で、まだ返していないものだった。借りた相手は記憶が確かなら、同じ国家魔術師のテレンスだ。
「師匠。これをテレンスさんに返してきますね。書庫から貸してもらったまま、忘れていました」
「ああ、うん、分かった。気をつけて」
パロールはテレンスから借りた書物をまとめて持って、部屋を後にする。書庫の鍵はテレンスが持っているので、テレンスに返すにしても、書庫に返すにしても、テレンスを訪ねることは必須だ。
テレンスの部屋に向かって、パロールは魔術師棟の廊下を歩き出そうとした。
その直後、向かう先の階段の付近で誰かが通り過ぎた気がした。それもただ通り過ぎたわけではなく、走り去ったような印象だ。
それが誰かは分からなかったので、声をかけようとは思わなかったが、魔術師棟の中で忙しなく走る人は少ないので、珍しいとは思った。どちらにしても、階段を使わないとテレンスの部屋には向かえないので、パロールは階段のある方に移動することになる。
そこで何気なく、さっき誰かが通り過ぎた先に目を向けて、パロールは思わず足を止めた。
「あれ?」
そう呟いてしまったのは、その先は行き止まりで、そこには窓しかなかったからだ。その方向に誰かが向かったはずだが、そこには誰もいないどころか、誰かが入る部屋もない。
「見間違え、かな……?」
ちょっと不思議に思いながらも、研究の疲れが溜まった時に変なものを見ることは良くあることだ。今はその自覚がなかったのだが、密かに疲れていたのかもしれない、とパロールは思い、研究室の片づけを終えたら、休む必要もあるかと考えていた。
☆ ★ ☆ ★
まだ十にも満たない幼い子供のように、廊下を駆け回りながら掃き掃除を進める姿を見て、キャロルは頭を抱えた。駆け回っているのはネガとポジの二人だ。キャロルはその二人と同じく、王城に仕えるメイドの一人である。
キャロルの隣では、同じくメイドのスージーが床を徹底的に拭きながら、キャロルの様子に苦笑いを浮かべている。スージーが二人に注意するとは思えない。キャロルは自分しかないかと諦めて、ネガとポジにビシッと指を伸ばした。
「はい、そこの二人。真面目に掃除する!帝国から偉い人達が来て、舐められたら終わりなんだから!」
「床を舐めるなんて汚い」
「窓を舐めるなんて汚い」
「そういう話じゃない!」
ネガとポジは分かり切っていながら、真面目に掃除をするのかしないのか、曖昧な態度を崩そうとしない。その様子にキャロルは頭を抱え、一刻も早く、ここに助けが戻ってきてくれないかと、ベルの顔を思い浮かべながら思った。
「私一人で対応するのはしんどい……」
「先輩も大変ですね」
苦笑したままのスージーが他人事のように呟いたが、同じメイドのスージーが関係ないはずがない。本来はスージーも注意するべき案件だと、キャロルは恨みの半分を込めて、スージーを軽く睨みつけた。
「え……?私は掃除してますよ……?」
「ああ、うん。掃除はしてるね」
それ以外の部分も担って欲しいのだが、とキャロルは心の中で思うのだが、それをスージーにぶつけて、いざスージーに対応を任せたとして、自分よりも振り回されるスージーの姿しか思い浮かばない。
そうなったら、仕事にならない三人が誕生するだけで、問題は解決どころか、悪化する一方だ。
こういう時はメイド長であるルミナのように、圧倒的な威圧感で二人を制圧するか、ベルがそうしていたように、二人の興味を掃除に向けるように仕向けるか、そのどちらかなのだが、どちらにしても、キャロルにはそれができるだけの力が身についていない。
早くベルに戻ってきて欲しい。再びそのように、特別な用事で王城を出ているというベルの帰還をキャロルは願った。
その間にもネガとポジは勝手に場所を移動して、掃き掃除をしているのかどうか怪しい動きを見せていた。スージーはキャロルの威圧感に少し気圧され、キャロルから離れた位置で拭き掃除を再開している。
また自分が見に行く必要があるかと、キャロルはネガとポジのところに向かおうとするが、そこで廊下を素早く誰かが通り過ぎた。
そこはスージーが拭いていた場所だ。床は滑りやすくなっているはずで、気をつけないと大変なことになる。
「そこは掃除したばかりなので気をつけてください」
そのように声をかけながら、キャロルは誰かが通り過ぎた先に目を向けた。
しかし、そこには誰の姿もなかった。ここは長い廊下の途中で、側面に扉は並んでいるが、それらの扉に鍵がかかっていることは確認した。部屋の中に誰かいたら、掃除することを伝えて、注意しておかないといけないからだ。鍵を開ける時間もなかったはずなので、そこに消えたとは考えづらい。掃除の最中なので、窓こそ開いているが、そこも超えていけるような高さではない。
確実に誰か通り過ぎたはずなのに、どこに行ったのだろうか、とキャロルが疑問に首を傾げる中、その様子を不審に思ったらしく、スージーが近づいて声をかけてきた。
「どうしたんですか?」
「いや、今、ここを誰かが通り過ぎなかった?」
「え?いえ、特には誰も見てませんけど?」
「あれ?本当に?」
不思議そうにするスージーと不思議そうな顔で見合ってから、キャロルはネガとポジに誰かが通り過ぎなかったかと聞いてみたが、二人も特に誰も見ていないと答えるばかりで、キャロルは自分の勘違いかと、納得できないながらも思うことにした。
☆ ★ ☆ ★
怪しい人物の捜索とは言っても、王城内を目立って怪しい人物が歩いているはずもなく、イリスはもう少し考え方を変える必要があると考えていた。
怪しいという抽象的な言い方ではなく、単純に普段と違う動きを見せる人がいたら、その人物が内通者である可能性があるのではないかと思ったのだ。
帝国からの使者が来た現状、そこと接触したい気持ちは強いはずだ。そのために普段と違う動きを見せるのは、内通者の行動として十分に考えられる。
普段と違う行動。それに真っ先に該当するのはイリス本人だが、もちろん、イリスが内通者のはずがないので、それを除いた時に誰がいるのか。イリスは再度、王城内の人々を観察しながら、王城を一通り回ってみることにする。
帝国からの使者は既に王城を離れたと聞く。この状況で内通者がどう動くのか定かではないが、内通者がいて仕事がないはずがないとは思うので、帝国の使者と何かしらの手段を用いて、接触を図るのかもしれない。
そう思った時、不意に門の方に向かってみることを思いついた。そこの出入りを見て、普段は外出をしないか、普段から外出の多い人物が外出をしていたら、少し怪しいと疑うべきかもしれない。
その思いから、イリスは通用門の方に歩いてきたのだが、そこで最初に見つけた人物は王城の人間ではなく、ギルバートとタリアだった。
その瞬間、イリスの頭を過ったのは、昨日のアスマの一件だ。それをまだ本人から聞けていない状況で、この場面は正にその機会と言える。
だが、今は一刻も争う仕事の最中だ。そのような関係のないことに時間を使っている余裕はない。
そう思ってから、いや、とイリスはかぶりを振った。
ギルバートとタリアは王城に出入りこそしているが、多く出入りしているわけではない。帝国からの使者が来た、このタイミングでやってきたことは、ただの偶然ではないのかもしれない。
もしかしたら、二人が内通者、もしくは内通者と通じている可能性があるかも、とイリスは疑いの気持ちを膨らませて、ギルバートとタリアに接触する理由を何とか作っていく。
冷静に考えてみたら、昨日にギルバートのところを訪ねた際に、武器商人界隈のごたごたを聞いているので、それ絡みの話があるのかと思うところだが、そのような考えは一切懐かないことに決めて、イリスは自分自身を説得するように理由を決めつけた。
これはもう、ギルバートとタリアを調べてみるしかない。そう確信して、イリスは二人のところに向かうために歩き出そうとする。
その直前のことだ。一歩を踏み出そうとしたイリスの邪魔をするように、誰かが廊下の角から飛び出して、イリスの方に迫ってきた。
イリスもその人物も、咄嗟に身を躱して、衝突こそ避けられたが、もう少しでぶつかっていてもおかしくない状況に、イリスは面食らって、迫ってきた人物を見やる。
そこでその人物と顔を見合わせて、イリスは思わずその人物の名前を口にした。
「ヴィンセントさん?」
その声にヴィンセントは苦笑し、イリスに向かって手を立てながら、「ごめん」と小さく口にした。
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